攝津幸彦選集を読みました。

攝津幸彦選集を読みました。

          2021/01/11

          十河 智

 

 邑書林より出ている攝津幸彦選集を読みました。


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 攝津幸彦自身が自らの俳句を語るインタビューもあり、筑紫磐井さんの「摂津幸彦論」も掲載されています。

 

〘〙 わたしの感想です。引用の間に書き入れています。

★  句集や句集抄の、その句集での好きな句、気になる句、を挙げています。

……  解説、評論、インタビューでの引用の 前後中略を示します。

−−  インタビューアーの問いかけ

 

★『姉にアネモネ

亡母(はは)を練るアジアの花の花野かな
姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ
愛は暗し太き仏をながしけり
くじらじゃくなま温かき愛の際
天秤の弱き姿勢や寒卵

 

攝津幸彦賛ーー大本義幸」より
 ………言葉は日常的意味性から切り放たれた場所でこすれあい、重なりあって、非日常的であるから日常的言語よりもリアリティをもつという言語自身の輝きに重きを置く、そういう彼の俳句を私は好きだ。………

 


★『鳥子』

「序 高柳重信」より
 …………………………………

……攝津幸彦の俳句は、俳句形式を簡便な計量カップのごとく使用しながら、早々と自信に満ちて何かを掬い上げるというような安易なものではない。むしろ彼自身は、いつも不安げに躊躇しているが、ときおり俳句形式の方が進んで姿を現わしたとでも言うべきものが、もっとも典型的な攝津幸彦の俳句であろう。…………
 したがって、攝津幸彦の俳句は、ある意味で非常に俳句的である。…………
 しかし本当にすぐれた俳人は、ただ一人の例外もなく、そのときどきの俳句形式にとって予想外のところから、まさに新しく俳句を発見することによって、いつも突然に登場してきたのである。

 

 流体力学
かくれんぼうのたまごしぐるゝ暗殺や
かんなしむゆふいうれにほとげかな
みまなこの蛇ほどけゆく非常かな

 

 H&R
花ぐもりまつかな船を焼いてゐる
 ※
亡母まだまひるの葱を刻むなり
うなぎみづみづしく情人飢ゑし渚や

 

 姉にアネモネ

 (上記の再録、一部原句と異なる)

 

 頌家
十二月あひると愛人疾走す
油蝉飛ぶ三界の軽きこと
花疲れ蝸牛(ででむし)われをなぞるなり
亀転びやすし満月の肩のあたり

 

 幻景
送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)
秋津洲すそ野しぐれに股肱なる
はるばると死すチチハルに大夕陽
川に落ち山に滑りて戦地とす
亜細亜秋の苦力やはらかし
国語涸れ北支の月夜しぐれかな
南京の香れる花にも雌雄かな
極寒裡埠頭に某の知恵うかぶ
大日本(おおやまと)墨は匂へる新歴史

 

 逍遥
花守の花に生まれて匂ひけり
日に緋なる伯林のばら滅ぶ美枝
鷗・元伯爵・鞦韆・語草

 ※

青春よぐみの実または器具である

 

 あなめりか
自由へのバナナのまつり白きおつり
寄する波・夜する戦・病めるレスラー
舞ふブロンドの髪のサラダよ星条旗

 

 後記

……………………
……この最短定型詩型なる俳句形式の中に塗り込められた数多くの言葉が、果して何を意味し、遂に何を意味しなかったのかに想いを馳せる時、言葉とほとんど同時的に存在してしまう意味なるものにとても不快を覚えてしますのはどういうわけであろう。……………

………………………………

 


★『奥野情話』抄

大学や雀はするめを這のぼる
押入れのダリヤの国もばれにけり
久方の空の耳朶色づきぬ
美しきもの煮ゆるなり夜の河
もう人間の今三名の葱刈りぬ
あたし赤穂に流れていますの鰯雲
寒月や貴女のにはとり静かなり
脳天や秋のうどんのために座す

 


★『鳥屋』抄

水球の男と女と狂女かな
太古よりあゝはいごよりレエン・コオト
死ぬことを怖れよ国立市の燕
野菊あり静かにからだ入れかへる
象徴の詩人を曲げて野分かな
春の海ビニール既に黒ずみぬ
平城山に妻を忍びぬホッチキス
浄土これ畳のヘリにとろゝ汁

 

 

★『鸚母集』抄
水かぶる日本しづかな雛の家
のんのんと風呂敷が行く萬葉へ
てのひらで支ふ頭に雀棲む
蛇生れて国道に死す儀式かな
脳味噌にある空海とダリアかな

 

 

★『陸々集』抄
粉乳とパンの廊下をやよ忘るな

 

 

★『鹿々集』抄
ひんやりとしゆりんと朱夏の宇宙駅
百千鳥一寸先の闇に湧く
十五年戦争十五の十六夜
かたつむりあつまる陛下なみだぐむ
花八つ手しやんしやんしやんで果てにけり
チェルノブイリの無口の人と卵食ふ
煙管火の煙管もろとも厩火事
一月二十八日取りいだしたる馬の骨
弔ひのピストルを撃つ春泥に
十薬の如く干されし能役者

 

 

★『四五一句』抄
チウと泣く嫁が君とか君が嫁とか
お国の忌兵たりしもの減りにけり
きびたきやおゝるりのじこのほととぎす
冬晴れの不二の戴き過誤多し
はいくほくはいかい鉛の蝸牛

 

〘 独特の俳句にびっくりしていますが、好きな言葉の並びでした。口に出してう読むと嬉しくて楽しい。言葉を意味の伝達と捉えると、首を傾げるかも知れないが、音楽や叫び、気持ちそのままの人の野生の呻き声と思えば、受け入れられる。しかし原始的ではない、現代の社会や文化生活の中から言葉はセレクトされ、不思議な俳句に取り込まれてゆく。〙

 

 

〘 この後は、攝津幸彦の自身が語る言葉を引用しよう。「インタビュー」からぬきだしてみる。
 私が、この本で彼の句を読んで来た不思議な感想が、あっこういうことだったんだと、思い当たるかもしれない。また、とても想像を超えていた彼の句がもっとわかるようになるかもしれない。〙

 


インタビュー 1


・できあがった瞬間、全く無意味な風景がそこにある、という俳句が書きたいんです
     聞き手/村井康司「恒信風」

 

     

季語そして定型

 

−− 広く作る、一つのパターンに固まらない、みたいなことを意識していますか。 

(攝津)
「いろんな形でいろんな句を書いてみたいっていうのはありましてね。ただ、基本的な五七五の定形だけは守ろうかな、みたいな部分がありますから。ご存じのように、季語っていうのは全く意識していないですし。」

 

−− 攝津さんは切字を割と多用されているんじゃないかと思うんですよ。意図的に切字を使うという、定型を守るというのは、ずっと最初から今まで一貫されていると。

(攝津)
自由に書いていた時期がありました。そうすると無数にかけていく恐れが出てきて、何か自分にひとつ課さないといかんのじゃないかなって言うことと、五七五っていうのは、もう古事記の時代からのリズムですしね、やっぱりその中に宿る、何かがあるんじゃないかということを最近思っているんですよね。…音律っていうのか、調べの中にいろいろな自分の肉体感覚に近い言葉、…それぞれ各人に根差す音源みたいなものが、遺伝子の中に組み込まれているんじゃないかな、なんて大げさに思ったりしますね。音で自分のあり方を規定してるっていうのか。

 

−− 人名が出てくるあ句が割合多かったですよね。〈春耕や新渡戸稲造雀追ふ〉

(攝津)
ある人がある名前で呼ばれて、それがその人のすべてを象徴するというのは、非常に不思議なことじゃないか、…言葉と単なる肉体に別れてふわりと宙に浮くような。…ただ単なるシンボル、記号であるべきものが、なにかその人の生涯とか運命とかも、決定してしまうような、そういう姓名というものはなかなか怖いものだなあ、と。

 

−− そこにあげられた人物に対して思い入れがあるということではないんですね。

(攝津)
例えば「新渡戸稲造」という人は、あの新渡戸稲造とは限らないってことですよ。

 

−− 吟行会…なさったことは。

(攝津)
 記憶に残る吟行会っていうのはやったことはないですね。……いわば十年ぐらい激しく修行を積んでね、なにかをものにしていくみたいな、そういう若い連中のすごいのが伝統派の中から生まれてくればということを思ってたんだけど、やっぱり全くいなかったですよね。…結社ってところは、そういうふうには人を育てないところかもしれないですよね。…だから、ある種非常に偏った俳句しか生まれないみたいなね。
 ですから、やっぱりある程度僕がフリーに書いてこられたのも、結社に属さなかった部分が大きくあると思いますね。何を書いてもいいということですね。そこで自ら自分似合う書き方を選んでいくっていうことを、二十何年間やってきたわけですよね

 

−− 結社に入らないで俳句を書いている人達が最近はどこにいるのかわからない。

(攝津)
伊藤園」が俳句を募集すると、大変な数が集まってくるで、興味を持っている人は多いとお思います。……これからはパソコン通信の普及によって、パソコン俳句からすごい人材が出てくるんじゃないですか。……これからはデジタル化してしまったところから、アナログ風景を読みとるみたいな、心や感覚や美の世界もこれまでと違ったコンセプトからパソコン通信を通して五七五に切り込んでくる連中が生まれてくるような気がするんですね。

 

 

・わが俳句の青春期

 

(攝津)
僕は1970年に学校を卒業したわけですよ。もうあらゆるものにエネルギーがあったみたいなあの時代っていうのは、今までもこれからもないね。今から思えば非常に素人っぽいわけだけど、暗黒舞踏とか、寺山修司天井桟敷とか、唐十郎とか、あるいは映画もいろいろ、ヌーベルバーグですか、吉田喜重とか、大島渚とか、そういう人が活躍していた時代で、今ではそういうのを懐かしく思い返せる時代になっているわけですけれど、そういうところから俳句を始めたわけです。……おふくろが「青玄」で俳句をやっていた……身の回りの人が俳句をやっていたっていうのが圧倒的に多いですね。僕もおふくろがやってた関係で、まあそれもいいだろう……俳句をやるのも洒落てていいなというようなことでやりはじめて。……やっぱり僕は「青玄」調は体質に合わないっていうのかな。例えば音楽で言うと、俺はジャズが好きなんだけど、ポピュラーはちょっとみたいな感じで、「青玄」には所属することはなかったですね。

 

−− 「豈」という攝津さんがされている同人誌は、そこを拠点にして何かをしようという場としては考えてられませんでしょうか。

(攝津)
これはもう、全くないですね。「豈」は俳句形式の浪人集団っていうのかな、あるいは不良集団って言ってもいいけど、そういう人の寄り集まりの場であって、今までになかった俳句や評論なりを勝手に書くという、そういう場なのだと思います。

 

 

・「何もない風景」を現前させたい

 

−− 例えばある単語と単語とを併置して置いた場合にですね、それが「当たり」とか「外れ」とかいう判断を常にされてると思うんですけれども、そのご自分でされている作業っていうのを、別の言葉で置き換えることはできますでしょうか。

(攝津)
「腑に落ちる」って言葉があるけど、自分が先験的に持っている肉体感覚に落ち込むみたいな、そのへんでやめるっていう言い方が一つあるのかな。………

 

−− 意味はわからないんだけど好きだってケースが、特に攝津さんの俳句の場合は多いんです。

(攝津)
読みっていうのは面白くてね。<階段を濡らして昼が来てゐたり>っていう僕の句を、歌人の小池光が、「昼」っていうのは、朔太郎の詩に「浦」っていう女が出てくるから、「浦」の妹で「昼」っていう名前の女だろうって言うんですね。そういうある種わからないものを固有の名称に置き換えて読むと、けっこう抽象俳句でも分かるようになるケースが多くて………

 

−− でも本当に攝津さんの句を読んでいると「なんだかわからないけどすごく好きだ」という感じがすることが多いんです。

(攝津)
それはかなり意識的な部分もありましてね。一番難しい俳句っていうのは、何かを書き取ろうとして、実は無意味である、しかしなにかがある、みたいな俳句だろうと思っているわけです。……そういう「何かがあるけど何もない」みたいな俳句を目指すためには、やはり膨大な
量を書いて、その中の何句かが生き残るみたいなことになるのかなあ。……とにかく非常になんでもない句、しかし俳句然としてそこにあるみたいなね。なんか原初に帰るみたいな、そういう一句が書きたくてしょうがないんですね、今は。

 

−− 俳句の短さが、そのために役立つということがありますでしょうか

(攝津)
うん、それは多分にあると思いますね。……僕はやっぱり現代俳句って言うのは文学でありたいな、という感じがあります。「文学」ってどういう意味だと言われるけれど、これはやっぱり読み返すたびに新しい何かが見いだされて、その底にはある種の悲しみとか、あるいは毒ですね、そういうものがないとあまり書く意味はないんじゃないかと。……


  (1996年1月13日新宿にて)

 

〘 攝津幸彦は、極めて真摯に、言葉と俳句に対する思いを語ってくれている。現代俳句は文学でありたいな、というのが彼の目標であると語っている。〙

 

 

インタビュー 2 

 

・狙っているのは現代の静かな談林
 「太陽」平凡社)のインタビューに答えて

 

−− いわゆる典型的な団塊の世代。この世代は俳人の層も目立って薄いし、しかもあの1970年頃に俳句を始めたというのは、かなり特異なケースのように思われるのですが。

(攝津)
それはそうですね。でもえあたしのばあい、幸運だったのは、大学で伊丹三樹彦の娘と同級で、「青玄」の若手グループだった坪内稔典などを通して俳句を知ったことでしたね。そこで教えられたことは、とにかく自分の思っていることを、できるだけ短いことばで書けばいいということでしたから。だから今でも続けられていぇいるんだと思います。
 ……風景を見て俳句を作るということは思いもしないんです。サラリーマンですから、作るのは土、日で、まず土曜日は静かにことばとなれるというか、日常のことばと違うことばを切り取る作業にあて、日曜日は朝から原稿用紙とにらみ合うといった作り方です。………
 以前は自分の生理に見合った言葉を強引に押しこめれば、別段、意味がとれなくてもいいんだという感じがあったけど、この頃は最低限、意味は取れなくてはだめだと思うようになりました。そのためにはある程度、自分の型を決めることも必要でしょうね。高邁で濃厚なチャカシ、つまり静かな談林といったところを狙っているんです。

 

〘 攝津幸彦は、風景を見て、俳句を作らないんだとひしひしと実感する。たしかにそれは言語の本質的一面であったと気づく。生き物としてあることが、動けばかすれ、触り、音を発する。赤ん坊は泣き、子供は騒ぐ。成長により人に表現材料としての言葉が蓄積される。攝津幸彦は、せっせと貯め込んだ言葉の山を俳句を作る土曜日に掘り起こすのだ。日曜日に五七五の棚に見た目が自分の嗜好に合うように色々飾っては楽しむのだ。そんな楽しみ方も言葉にはあると、攝津幸彦の句集に展示してくれているのだ。ピカソを楽しむように、攝津幸彦を楽しみたい、そう思った。〙

 

最後になるが、

 

「摂津幸彦論」

    筑紫磐井

 

俳人は結社で育つと疑いもなく多くの指導者はいい放つが、現代にあって同人誌だけで俳人として大成したたった一人の作家が攝津幸彦であった。……………現代俳句派でありながら伝統俳句との距離など少しも感じていない不思議な人であった。……………………

  ✱

………………

しかし、攝津が俳句という表現形式で本領を発揮し始めるのは、大学卒業後、広告会社東京旭通信社に入社し、関東(浦和、与野)で生活するようになってからだった。広告代理店という、クリエイティブで無国籍な仕事をする環境は、幸彦俳句の本質をなしている。

…………

 このように攝津波結社の俳句作家と違った独自の方法論を持っていた。………………

 

 

〘 筑紫磐井さんは、まこと攝津幸彦論を書くに相応しい幸彦との関係、距離を持った人である。俳句の社会も攝津幸彦もよく知り、両方の側面から、切り込んでいける人である。

この本の最初に攝津の書いた、「皇国前衛歌」の書というかイラストが掲載されている。皇国は広告でもある、としっかり書いてくれている。皇国と前衛が矛盾すべきものである(広告と前衛は、多分相性が良い。)が、幸彦は結びつけ、これは俳句の連作でありながら、幸彦は「歌」であるという、ともそこまで解説してくれる。皇国という特別な時代の言葉を使った幸彦の心象についても、広場で野球している少年時代の米軍キャンプのラッパの音と、若くして戦火に散った、野球選手の影について幸彦自身の述懐を示している。

 攝津幸彦自身が書く俳句論にある「言葉と言葉がこすれ合うことにより、ジリジリと姿をあらわすダイナミックな抒情、言葉の意味のみを追求しようとすれば、その一貫性の欠如ゆえに失敗し、句の雰囲気を感じとろうとすれば、忽ち作者の肉体性というべきものに邪魔される。そんな抒情を、少しでも味わいたいと常々思っている。」これは、まさにこの本の幸彦の句に接して、私が直面し狼狽えたゆらぎそのものである。言葉の意味に固執しすぎて、理解不能の空回りに陥り、五七五の持つ韻律に頼ろうとして、ふと構成する一つの言葉の硬さに躓く。初めて味わう言葉の世界であった。慣れが必要なのか、肯定ばかりでなくてもよいのか、この判定不能こそ作者の術中に入るということなのかもしれない。抒情として、危うい美意識としてそのまま受け入れるべきものかもしれない。この論文の最後の一節、入院した攝津幸彦を見舞う筑紫の、攝津にとって、あの死はちょっとした休息、という思いは、ほぼ同年のそれから15年も生き延びた今の私には、響くものがある。筑紫は、攝津でも旧世代の無理解と戦って疲れていたのであろう、そのための休息だったのだ、という。側で親しい筑紫には、そんな姿が見えていたのだろう、別の分野ではあるが、五十半ばのわが戦いを振り返ると重なるものがある。私達学園紛争の世代は、学生時代は紛争を横目で見ていたものも、どこかで旧世代との戦いに直面する羽目に陥りがちなのだ。ふとそういう思いがよぎる。

この評論の最後に上がっている、攝津が書いた一文「何も考えず今はゆっくり静養しようと思っています。」は、この思いのまま、天国に行ったのならばよかった、と思わせてくれた。今もゆっくり休んでいてくれていることだろう。戦いの末に残してくれた俳句を長く味わっていきたい。〙