谷口智行編「平松小いとゞ全集」邑書林を読みました

谷口智行編「平松小いとゞ全集」邑書林を読みました。

        2021/02/26

        十河 智

 

 外出自粛のこの頃で、時間は沢山あるようでも、生活にメリハリがなく、ついスマホを弄り、テレビの録画を消化することで、ダラダラと一日が過ぎる。

 興味を持って手元においた句集さえも溜まっていた。それをお正月過ぎに、やっと、一つ一つ読み終えていった。たまたま重なった、攝津幸彦、生駒大祐の俳句は、私には、慣れないというか難解で、嫌いではないが、時間がかかった。ようやくこの全集に辿り着けた。


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谷口智行編「平松小いとゞ全集」邑書林

 

 全集と言うには、あまりに小さいボリュームに、悲しくなった。全く知らなかった小いとゞだが、どこにあっても俳句が道連れの一生に惹かれていった。

 ほんの幼少期から俳句を作り、少年期から、父、竈馬が主宰の結社誌「熊野」に投稿。家庭俳句会、そんな句会の成立する家に育ち、ごく自然な表現法として、俳句の定形を身に着けた小いとゞ。まず家庭俳句会が、なんとも言えず和やかで、文化的で、本当に素敵である。

 彼の少年期の俳句、身の周りをごく自然に写していて、本人にまだ熊野を見せたいという意識はないのだが、熊野がよく現れている。題材や着眼に幼さを残しながらも、調った俳句であると思った。

 熊野から京都へ進学のために出た後も、三高、代用教員、京大と、暮らしや居所が変わっていっても、父、竈馬への書信、日記・随想・吟行記など、俳誌「熊野」への投稿は変わらず続けており、この全集の後半は、そのような散文が収められている。

 日常を書き留め、報告する父への文も、明るく茶目っ気が見られ、若々しい。父の返信もあるが、穏やかで、俳句の話、家業の話、戦地の息子への気遣い、加えて熊野の季節の移ろいまで、淡々と綴られている。私は親とこんな手紙のやり取りの経験がないので、少し羨ましい気がした。

 このような素地があって、戦死の直前まで、記録に近い俳句が書き続けられるのである。

 年齢と兵役、戦場への服務など、その時代を全く知らないので、詠まれた状況により違ってくる句意の差し迫る迫力を私は読み間違えているかなと思う句が多多あった。帰郷して里の野辺にある景か、戦場の行軍中の野営の横の景か、読みきれない句も多かった。どちらも想像して、怖いくらいであった。招集後の句は、作者の脳裏にも、どちらで得た句であっても、一つの軌道に2個の電子が位置を得て回るごとくに、戦場と故郷の二重写しの原子雲軌道があったことだろう。

 

 

 

装幀

 句集は装幀にも句や作者の色が表されている。

 この本も熊野出身の画家、藤岡裕二が、若いころに描いた「熱い青」がカバー装画に使われている。

 若くして亡くなった小いとゞの残した句、若い画家の自らは不完全燃焼と言う試行錯誤のある作品。

 熊野の風景が「ふる里」であり「竹馬の友」心に刻まれた原風景というこの画家の言葉に、俳人・小いとゞ、そして、全ての熊野に生きる人々の心に通うものを感じ取ったと、編者は言う。そして確かにこの表紙から熊野の色を感じ取った私がいる。森の暗さの向こうに空や海、人々の暮らしがある、そんなイメージが湧く。

 

 

 

 ―小いとゞくんのこと   

     高濱虚子

 小いとゞの父、平松いとゞの手紙、小いとゞの戦場での死の報告と、小いとゞの虚子への感謝と俳句への思いの深さを表す遺された言葉の紹介と、虚子が「ホトトギス」昭和21年1月号に書いた文章から、ここに、この書の序として採られた。

 

「虚子先生、あなたたは、私にとって、何と大きな生命の規定を作ってくれたことか。思へば、私の生涯の如何なる事件と雖も俳句と行動を共にしなかった事はないのです」

 

 生きた時代が違い、最期に小いとゞがあった戦場という過酷な環境を理解することは難しい。ただ彼が如何なる事件と雖も俳句と行動を共にした、俳句で記録を残した、という事が、私達に、偽りのない現場を伝えてくれたのだ。彼がそこをどう思って俳句を作っていたか、俳句を我が表現形式として、作り続けただけであるにしても、状況に何らかの問題意識を持って伝えたいと思っていたとしても、どちらでもさして違いはない。彼の残してくれた俳句に嘘偽りなく戦場が再現されていく。

    

 

 

3 

俳句編−1

【少年期、家庭俳句会、熊野】

  この本の編集に従い、年代別に、気になる、また好きな俳句を抄出した。

 年号の後に、彼の年齢を併記した。

 ところどころに私の鑑賞を入れた。

 

大正15年(10歳)

 初入選2句「熊野」大正15年8月号

ぬれ草に大きく光る蛍かな

杉垣に今とまりたるとんぼかな

 

初秋の障子のぼりぬ油虫

夕日入る向うの山の芒かな

 

昭和2年(11歳)

炭俵一つまはしてかつぎけり

( 「一つまはして」がなんともリアルである。)

 

畑打やときゞゝ谷の水の音

松原は靄がくれなる良夜かな

 

昭和3年(12歳)

舞妓等の喜び合うて初鏡

湯上りの母の若さや初鏡

( 初鏡の2句、思春期の背伸びの感じが良い)

 

提灯のあちこちとして夜桑摘

隣家のラジオ聞きつゝ行水す

 

昭和4年(13歳)

夜桜にところゞゝゝの夜店かな

( 13歳の少年ならば親と一緒のぶらぶら花見でしょうか。人の集まるところには夜店、田舎の町の桜の名所にも、来ているのです。子供には桜よりもそちらがメインかも。)

 

三階の高いところに岐阜提灯

( 三階のある建物、どんな家なのだろうか。ひときわ目立つ岐阜提灯。今のような町ではない。灯も明るくて、きれいなことだろう。)

 

薬瓶に冬の蠅来てとまりけり

( 風邪でも引いたのでしょうか。昔の水薬の瓶は500mlのガラス瓶、口のあたりにシロップが纏わりつく。蠅も来て止まろう。寝ていて何となく目に着いた。俳句になった、というところか。)

 

昭和5年(14歳)

牛連れて麦笛吹いてゆく子かな

(村のいつもの風景。麦笛を吹く子は、知り合いかも知れない。今日の俳句はこれと決める何かが閃いたのだろう。)

 

窓閉めて遠くなりたりくつわ虫

 

木枯の売出しの町を歩きけり

( この町は、地方でも中心地ではない。木枯が吹き抜ける町である。売出しは、時代を表し、町の大きさを示しているようである。)

 

昭和6年(15歳)

遍路さんと同じ渡舟に乗りにけり

 

   病床に友来る

枕辺の蠅をはらうてくれにけり

(山里には蠅が多いのだろうか。病のときには、気になるのだろうか。)

 

秋の山果して杣に出会ひけり

 

昭和7年(16歳)

くはへたる物のかたちや寒鴉

 

一面に傘干してあり庭青葉

(最近傘の一杯並ぶオブジェを見てきれいと感じたことがある。庭の雨上がりの青葉の中に一面に干された色の傘。きれいなことだろう。)

 

〈旅中句屑〉

さそひあひ沙羅の花落つ如きなり

 

かなゝゝの鳴く樹の下に佇ちにけり

かなゝゝの鳴き止みてまた歩きけり

(俳句は一瞬を捉えて詠む。こうして次の動きの始まりの時も詠んでおきたかったのだろう。) 

 

ケーブルの光れる道や霧の中

夕立の泥はねあげてバンガロー

    〈旅中句屑〉了

 

縁に傘置いて無月を待ちにけり

話し声近づき来るや霧の橋

温室の屋根に溜れる落葉かな

( 無月、霧の橋、落葉、季語がある場面を逃さず、その景に俳句的詩情を添える。

 年譜によると、夏、父と高野山や、関西一円の観光旅行をし、9月に学校行事で和歌山61連隊へ見学があり、上海事変の年だという。すぐそこに自身の巻き込まれる戦争が迫っているのだ。)

 

昭和8年(17歳)

冬晴の大磐盾の下を行く

野遊や村の子供が渡し守

水に泡浮べて蟹の沈みけり

前を行くゲートル白し夏の露

ゆくりなく夏萩咲けり東光寺

でゞ虫の生まれてをりぬ釣瓶井戸

子供等の玩具散らばり秋桜

(「家庭俳句会」が、この年開催されたとある。また、虚子を熊野に迎えたとも。小いとゞの俳句にとって、張りもあり、力も伸ばした年だったことだろう。少し大人びて、見えるものを整理して、距離をもたせて俳句を作っているように感じた。)

 

 

 

俳句編−2

【三高、京大、京都】

 

昭和9年(18歳)

底摺りて舟のゆきゝや花茨

漕ぎ出でゝはるかに雪の比良見ゆれ

( 卒業、入学と、生活の場が熊野から山科に移った。実は私も、大学の3年間を山科で下宿、ボート部に知人もいて、この2句に強く惹かれるものがあった。)

 

昭和10年(19歳)

寝る頃のおぼろ月夜や琵琶の湖

山科の盆地の黍は実りけり

神域や八つ手の蔭の秋の水

蘆の穂に彦根の城は遠きかな

星飛ぶや長命寺いま暮れしばかり

( 琵琶湖周辺の句、ボート部の活動に縁があるところであろう。)

 

昭和11年(20歳)

子供等の蝌蚪に一日遊びゐる

ポプラの樹朝をさわげり梅雨曇

蚊柱に暮れて病の床くらく

早打の煙の中の花火かな

 

〈「高台寺の萩」より〉

萩を離れ萩に近より佇める

高台寺より丸山へ萩つゞき

忠魂碑かこみて萩の盛りかな

ぱらゝゝと降り来し雨もはぎの雨

雨滴に萩の一枝ゆれにけり

     〈高台寺の萩〉了

(年譜によると、秋頃高台寺近くに仮住まいとある。高台寺の萩を満喫した句である。)

 

昭和12年(21歳)

庭先にあやめの咲いて田植留守

糸瓜忌や三十六に我未だ

古本屋にて奇遇かな秋の雨

父母遠くはなれて住めり除夜の鐘

( 熊野の小学校の代用教員を半年間やった年である。

 代用教員というのがどんな社会情勢で必要とされたのか、詳しくは知らないが、小いとゞの俳句は少なくなり、俳句の混じらない「子供らとの追憶 教へ子達の為めに」というエッセイ数編が、この全集の散文編に収められている。若くて、よく面倒を見て、頑張ってくれる、子供思いの先生であったと思われた。杓子定規ではない、一面を見せる、「幹夫のこと」、感動して読んだ。)

 

昭和13年(22歳)

はるゞゝと麦畑へだて雪伊吹

木蓮は輝き空に雲去来

葉桜に逍遥歌歌ふ友若し

夕顔や悔ある我に母優し

バス涼し海低くなり広くなり

更に又四明の霧にぬればやな

六法にはさむ月見草の花一片

コスモスのそよげる艇庫漕ぎ出づる

六本のオールに親し秋の水

菊替へる菊人形のさゆれかな

日曜の大学静か松手入

奥瀞の涸れしにかゝる修羅落し

雪の傘さし来る人を母と見し

庭の日はやはらか年木積む母に

学問の子によき仕事年木割

( この年に三高卒業、京大法学部入学。京都での俳人との交流、吟行などを共にしたとある。

 この全集に、孔島吟行記、「孔島の浜木綿」が入っているが、小いとゞの散文の、テンポのよさと散らばるユーモア。紹介する俳句への導き方も巧みで、言い過ぎず、的確。挙げられた句によって、叙述が完結する。

 纏まりのある一文となっている。

 この年の俳句は、行動範囲の拡大とともに、採句の視野が広がって、今までにない句を読ませてくれた。)

 

昭和14年(23歳)

松過ぎて帰校の心にはかにも

 

父老いてやさしくなりぬ榾は燃え

まぼろしよ炉辺に悴かむ父がふと

炉にあれば居眠りがちの父かなし

炉を立つて杣と出てゆく火に燭と

炉は静か父落す修羅の音きこえ

 

心ふと母とありけり春の月

母に書くときは子供でゆすらうめ

 

この辺り葵しほれし祭りかな

葵橋すぎ来る祭待つてをり

 

涙声の中にも河鹿鳴くと言へり

水死人幼く髪はおかつぱに

大滝のしぶきふすまを蝶流る

野々宮に澄む水つるべより杓へ

 

菊花節大正の子にして学徒

明治の世知らぬ子若し菊花節

遊学の身をおろそかに風邪心地

宇治の冬ひとり来てゆくところなし

あらをかし母の負ひ綿父が著て

炉話の父には言へず母の言ふ

縫ひをへし兄の春著を敷き寝する

( 父の句集の編纂を手伝ったり、俳句会にいろいろ参加しているようだ。余暇はほぼ俳句三昧ではなかったろうか。)

 

昭和15年(24歳)

羽子つくはをとこの国のをなみ達

恋かなし宵かなし小倉百人かなし

友ら征けり閑居の屏風蹴つて征けり

友ら征けり激せんとしては睹る屏風

 

  菟道稚郎子之墓

 (うぢのわきいらつこのはか)

オーバー手に皇子の御名が好きで佇ち

        

ふらこゝや兄姉らみな家はなれ

大学さみしふるさとの山焼けし便り

学さみしたつきの山の焼けし便り

夜の金魚こまかく赤くみな浮いて

その住家夏は疎水の水打つて

はなやかにわれら紅葉の渓を行く

 

( この年、京大俳句事件が起きる。小いとゞは、「京大俳句」からは距離を置いて、「ホトトギス」で俳句を続けた。

 編者の谷口氏が、小いとゞの、高等学校時代の心情を本人が書いた文章を引用して示している。

 「 既に当時、京都にあっては河上肇先生の事件の後、滝川事件がすみ、三高を最後とする白線の者らの社会運動も全く跡を絶したと云へ、その故にこそ思想の混乱は益々つのり、私は全く個人的情熱に於いてのみ三ヶ年を送ったのであった。」

 個人的情熱、それは

 「 四季の自然に目を向け、家族や同郷の子供たちを愛し、ひたむきに俳句を作る 」こと。

 谷口氏は続けて言う。

 「 俳句との関りという点に絞れば、小いとゞは幸福であったに違いない。」

 同じ学内で起きる騒動は、彼を決して放っておいてはくれなかっただろうし、無関心でもおれなかっただろうと思うのだが、もっと大事なひたむきになれるものがあったのだ。

 私もこの年までの学生時代、俳句があった小いとゞは、本当に幸せだっただろうと思う。

 実を言うと、私の学生時代も60年と70年安保の間の学園紛争で、大学は大荒れの時代だった。過激派からのインパクトも相当なものであった。私はその頃、学部の課題をこなすのが手一杯で、また自身のクラブ活動にも嵌っていた。その日常にひたすら励んでいて、この辺りの、小いとゞの心境や幸福感は、すごくよくわかる気がするのだ。

 

 

俳句編−3

【繰り上げ卒業、任官、戦死】

 

昭和16年(25歳) 

畑は霜真白し兄よ起きて来よ

そくばくの萩咲くばかり南禅寺

宣戦の夜も冬灯の書庫にあり

紫陽花は栄華の玉もなく枯れて

 

 十二月二十八日 繰上卒業す

 

国難を負ふべき者ら卒業す

卒業のけはしき顔と覚えそむ

 

( この年、夏くらいまでは変わらず、俳句、孔島吟行もしている。吟行記は、仲間と楽しそうで生き生きとした様子が描かれている。

 秋には、高等文官試験、司法科を受験し合格。

 12月8日太平洋戦争、宣戦布告。戦争が、やってきた。すぐに徴兵検査、繰上卒業となる。 )

 

昭和17年(26歳)

 

水仙やとくさはかへりみられずに

 

 竈馬宛郵便「筑紫便り」

 

朝霧ははれゆき筑紫野となりぬ

消燈喇叭ちゝはゝ端居をへしころ

 

 短歌一首

雨つよきあやめの沼の沼べりを土にまみれし兵すぎゆく

 

麦秋の落日は祈りさそふなり

夕立来菊コスモスといそがしや

暑に倒れしと看とるとを見てすぐるのみ

暗く暑くねむるなと励ましあひぬ

蛍や延々つゞく夜行軍

銃抱いて寝る世は峽の星涼し

彼を斃せしかの暑さにわれもゐたりき

銀漢やなまぬるき風涼しき風

夏草に埋もる家に水たのむ

  「筑紫便り」了

 

かなかなやこの身になさけもつれたる

月上るひんがしなべてなつかしく

士官なり木犀を手折り見習

刀をはづし火鉢によればなつかしき

山眠り漁舟は今日の日を終へて

 

( 高文に合格し、裁判所の事務職となることも決まっていたという。一月に吟行し、その吟行記が、普段通りに明るく楽しげな様子で、書き記されている。

 二月には応召、入隊し、まず、和歌山、ついで久留米を任地としたとある。

「筑紫便り」は、父の竈馬が家族宛の郵便物をまとめたものという。訓練期間であり、心のゆとりも保てているようで、俳句を作って、癒しとしているように見える。「気分にさへ余裕がありましたら、すばらしい名句をものにしたいもの」と、句作に意欲を見せています。

 それでも、淡淡と書かれる日日の行先は、軍事教練・演習場であり、句に使われる言葉に、「銃、斃す、士官、刀」、こんな戦(いくさ)言葉が出てくるようになり、句に示される殺伐とした光景に学生を兵士に変えていく過程をともに進んでいくようであった。)

 

昭和18年(27歳)

護国神社に世はうつくしと初詣

駅寒し訣別はただ挙手の礼

毛布凹凸一等兵の屍を囊む

子は母の背に肩掛の中に寝て

驚喚のあはれ遠さよ家焼くる

湯あがりの手のあたゝかく便り書く

春眠の夢の涙は玉をなし

葭原の一本の葭の天道虫

母恋し八月の夜の星の数

高原の秋堺見ゆ難波見ゆ

女郎花揺れて葛城むらさきに

しみじみと倥偬の間の虫の夜

 ★倥偬(こうそう)忙しいこと。「兵馬倥偬の間(かん)」

 と広辞苑にありました。ここは兵馬を思い浮かべるところかと思いました。

 

赤のまゝかく集まりてかく赤く

 

カーネーション甘やぐ心引き締むる

訓練の日日兵営の年歩む

 

( 年譜には、帰省と少尉任官とのみある。私は軍隊のことは全く知らない。どういう状況なのか、どこにいるのか、句から推し量っている。帰省は多分正月のみ、厳しい軍務の連続、極限も見るようになる。家族との時たまの手紙のやり取りが温もりとなる。まだ年若く、家の子である彼。父母を思い、家を懐かしみ、しかし状況を受け容れる、その様子が、彼のその後を知ると、読むものには痛々しい。)

 

昭和19年(没年)

動員の夜はしづかに牡丹雪

 

紙白く書き遺すべき手あたゝ

 ( この句を由来として、小いとゞの忌日を白紙忌となったと書かれている。戦地への出征を前の最後の帰郷。「紙白く」には、これから赴く戦地での未来に対する抗し難い不安を、離れゆく故国への肉親への慕情を、あえて振り払い、白紙で臨むその時があり、「手あたゝむ」になんとも言えず、静かな決意がある様に思った。)

 

別辞述ぶ障子の外に子等遊び

 

埋火に二十九年の父母の恩

 ( 埋火が、を一旦灰を被せて鎮める、仕舞い込むという行為であることに重ねて、戦いに異郷へ征くという時、ここで一度の区切りとして、親に育てられた29年の恩愛の情を鎮め、仕舞い込む、その思いに胸が詰まる。)

 

復逢はむ別れの電話切る寒し

 ( 「また逢おう」そう言いながら、電話は切るのだが、多分、自分の運命についてもうこの時には、思うところがあったのだろう。「寒し」の一語、季語であると同時に、万感が籠る。)

 

冬恩愛断ち切り難し断ち切りし

 ( いつもの俳句とは作りが違う。言いたいこと感情が表に湧き出ている。29歳の大の男であることを忘れるくらい辛い出発であったことだろう。)

 

冬海に泛び故国を離れたり

 ( 大型船での旅立ち、離岸は、ほんとにじわじわと、時間がかかるもの、この句はそうしたこと経過の後、領海を出た頃の気持ちだろうか。いよいよ、故国を離れてしまったという気持ちが、「海に泛ぶ」に現れる。)

 

雁帰り臣がいのちは明日知らず

 ( 同じ行程を北へ。雁は故郷へ帰る道、「臣」と選んだ言葉の含むものは、とても意味深い。発した作者の立場を言い尽くしている。明日の命もわからない旅路にあると、理解もしているのだ。)

 

三寒とも四温ともなく霾りぬ

 ( 霾る大地にいて、日本にいれば三寒あれば四温あるのにと、寒のみ続く気候さえもきっかけに、郷愁が喚起されるのだ。)

 

山西の雪の夜の汽車読むものなし

 ( 夜の汽車、今までも新宮から京都、和歌山、大阪、どこへ出るにも汽車を使っていたであろう。いつも、読むものを持って乗り込んだに違いない。新聞、俳句誌「熊野」、「ホトトギス」、あるいは、教科書、ノート。

 今乗っている汽車は、そんな汽車ではない、山西の雪の夜、戦争中の汽車。読むものがない、というのは、状況にとって当然のことながら、汽車に揺られている間、少し日常的な感覚に振れるところがあったのだろう。人は揺れながら振れながら、生きているのだと思う句である。)

 

月の陣母恋ふことは許さるる

いくさひま惜春の情無しとせず

 ( 母恋、惜春。人の心情はいかんともしがたく、月を見れば母を思い、戦が少し収まると自然の春の終わりを見つけてしまう。俳句には、そこの心境を記述することのみで精一杯という窮地が見える。)

 

仮陣に薔薇活けさすも我がこのみ

 ( 「我がこのみ」というちょっと荒んだ物言いにドキッとさせられた。決して優雅とは言えない。最後の抵抗的自己主張に感じられる。こんなことも書き残しておく、相当に切羽詰まった状況にあるのだろう。)

 

麦を踏める母達の子をあづかりぬ

 ( 部隊の編成など戦後生まれの私にはわからないが、農家の若い息子たちが多いのだろうか。まだ命云々の年ではあるまい。麦を育てる大地を行軍中に、そういえばこの子達もと、この句になったのであろう。末端で農民たちの暮らしはそう変わるものではないと、戦争の理不尽さを密かに思っていたのかもしれない。)

 

炎天の壁書に三民主義説かれ

 ( 中国も戦争と同時進行で、激動の時代、その象徴の一つ三民主義のスローガン。炎天下、そのスローガンから全く遠いところで行軍する自分たち、どう感じていたのだろう。)

 

新緑の地隙の底に住む民等

 ( 前の句もそうだが、俳句を作る者にとって、目の前にある景を切り取って言葉に変える行為は、自然すぎて、やってしまうに近いのだ。中国の行軍中に見る民のそのままを写したのだ。それが残されたのだ。)

 

★★いよいよ戦場の緊迫感が迫り来て、恐ろしい状況が句にあらわれる。そして、最後の時。★★ 

 

危地を來し心猛りに蛍火が

兵長めいぜられ麦畑に地図ひろげ

麦畑を匍匐(は)ひゆくはたと弾丸低し

敵陣も黄河も月下隅もなし

部下を焼く川風寒くほのほ打ち

いくさなかば閭(むら)に宿りぬこほろぎが

中原の空高ければ燕また

尖兵急麦熟れ敵屍遺棄せられ

雨季闇黒地図に灯せず四面敵

地図の道雨季がつくりし川に絶ゆ

緑蔭より銃眼嚇と吾を狙ふ

 

 ( 小いとゞの句を年毎に最後まで読んだ。彼は俳句に過剰な思いを入れることなく、終始客観写生、花鳥諷詠という虚子の教えに忠実であった。最後の最後戦闘の真っ只中にあってさえ、自分に緑陰から突きつけられる銃口に焦点を当てている。それが却って、小いとゞに起きたことをきっちりと伝え、読むものに同じ体験をしたように感じさせる。)

 

昭和十九年六月七日、午後七時、平松一郎(小いとゞ)戦死。

 

 ( 年譜によると、「中国河南省霊宝付近にて尖兵長として戦闘中、敵弾を顔面に受ける。」とある。最後の最後の俳句の壮絶さを、改めて感じるのである。)

 

 

 

没後

 

声上げて泣くだけ泣きし端居かな 竈馬

 

父の竈馬は、優しく慈しんだ小いとゞの死を、このように悲しんだ。

 

 虚子は、戦没の若き俳人の『五人俳句集』を選、巻頭に小いとゞを置いた。この句集の編者は、菊山九園、五人のうちの一人、菊山有星の父である。

 『五人俳句集』は、初刊、京都市竹書房より昭和22年12月、改訂新版としての、『戦没学徒五人句文集』を、昭和40年11月、京都市の書林三余社より出された。

 改訂版『戦没学徒五人句文集』に付け加えられた「忘れ得ぬ人達ー○○作戦覚え書きー」という散文は、小いとゞの戦死後、父竈馬に届いた遺品の手帖に認められていた日記である。この全集に収められたほんの一部を読んでみても、綿密、正確で、何の資料も持たない戦地で記した覚え書きなのだろうか、と思うほどである。

 身内から、熊野の俳人達のこと、虚子先生への思慕と感謝。成長とともに出会った学問の師、それぞれとの思い出。そこに偶然戦地で再会した中学の同窓生のエピソードの中に、淡く「婦人への愛」を忍ばせる。なんとも言えず微笑ましい、健全に育った若者の自然な文章である。戦地で書いたことを、遺書に相当する覚悟の回顧録であることを忘れてしまいそうである。

 

最後に

 

 若くして亡くなった小いとゞ、自分はもう年老いて人生の終わりかけ。ふと錯覚に陥る感情移入が起きる。愛おしい我が子の苦労を為す術もなく見ているような、そんな気がしてくる。母が恋しいと言われたときは、母になっている。銃口を突きつけられていると思えば、胸が潰れる。これは書いて残してくれた作者の力である。俳句も文学であると、そんな感情移入を経験すると実感する。

 小いとゞ全集として、世に出してくださった方々にも、お礼を言いたい。彼を知ることができて本当に良かったと。