生駒大祐さんの句集「水界園丁」を読みました。
2021/01/25
十河 智
2020年第11回田中裕明賞受賞の句集。日頃俳句誌を定期購読している蔦屋に頼んでおいたのですが、あまり聞き慣れない出版社で、手元に来るまで、時間がかかりました。
この本の最後に書かれた略歴によると、
生駒大祐さんは、1987年三重生まれ。「天為」「オルガン」「クプラス」などを経て現在無所属。第三回攝津幸彦記念賞、第五回芝不器男俳句新人賞。共著に「虚子に学ぶ俳句365日」(草思社)「天の川銀河発電所」(左右社)など。
まだ30代半ば、どんな俳句が収められているのだろう、と思いました。
しっかりした、しかしちょっと変わった紙質の本文のページ、この装幀がまた面白いと感じます。
受賞歴に攝津幸彦記念賞とある、私も最近攝津幸彦選集を読んで、言葉から入る攝津の俳句に、少し深く接したばかりで、この面からも、生駒大祐の俳句に興味津津、まだページを捲る前に、これほどの期待を持った本はそんなに多くないと思います。
ふらんす堂のHPで、田中裕明賞の選考経緯を読むと、候補作品どうし、接戦だったようで、「完成度の高い句集よりも、これまでにない新しいものに挑戦しているものということで、『水界園丁』の受賞ということになりました。」、ということだったようです。
俳句のみ、並んでいる句集である。
活字が小さめで、白い余白の中に、ページの裏表のつるつる、ざらざらの質感が交互にあり、1ページに2句づつ、浮いて、沈んで。
読もうとすれば、かなり集中しなけれなならない。
余分なものは何もない。
冬
せりあがる鯨に金の画びょうかな
枯蓮を手に誰か来る水世界
ひぐまの子梢を愛す愛しあふ
針山の肌の花柄山眠る
水の中に道あり歩きつつ枯れぬ
日を集め止まぬ枯木とやまひだれ
冬しんと筑波はうすく空を押し
春
雪一日春を中断して降れり
春の音たて酒樽の中にある
一睡と芝焼きたるは同じこと
鳥すら絵薺はやく咲いてやれよ
富士低くたやすく春日あたりけり
鯉抜けし手ざはり残る落花かな
骨組みもなく春の闇聳えたり
雑
星々のあひひかれあふ力の弧
在ることの不思議を欅恋愛す
陰日向吉野と聞けば馳せ参じ
夏
夏立つと大きく月を掲げあり
はんざきの水に二階のありにけり
棒の描く輪が花柚子と重なれる
月涼し木彫の熊に木の睫毛
風鈴の短冊に川流れをり
真白き箱折り紙の蝉を入れる箱
夜によく似て育つ木も晩夏かな
秋
天の川踏み鳴らしつつ渡る
月は鋭く日はなまくらぞ真葛原
水に恋してより激しこぼれ萩
ゐて見えぬにはとり鳴けば唐辛子
烏瓜見事に京を住み潰す
鳥渡る高みを光さしちがふ
ゆと揺れて鹿歩み出るゆふまぐれ
抄出は、直感に頼った。この句集には、生駒本人が提出する鑑賞の手がかりもない。読んで残る、それだけを頼りに選んでみた。
後で色々とHPや鑑賞のブログなどを当たると、彼の俳句の作法なり、鑑賞のヒントとなる鍵のようなものがあった。この先じっくりと鑑賞するときの参考にしたい。
この句集の出版元、「港の人」のHPにあった「推薦のことば」を転載しておこう。
《「ゐて見えぬにはとり鳴けば唐辛子」
季節と感情。
ていねいに言い間違える。
ある景色とない景色の二重表示。
俳句について、とても多くのことを考えた若い人の、尊敬すべき句集です。》
鴇田智哉(俳人)
《あなたは絵の中にいたことがあるか。
絵の中が現実であり、やわらかくうっすらとして深い。
だからあなたは、気づくとそこに生きてしまう。
このおそろしげな優しさは、またとない五つの章の巡りに、すでに立ち表れている。
水界園丁――なんて、はかなくて遙かなことよ。》
また、第11回田中裕明賞の受賞の言葉として、生駒大祐が次のように述べている。
《田中裕明賞受賞の連絡があったその日から、また『田中裕明全句集』を読み返していた。
改めて全句集を通読して、その文体の確かさから静的だと思い込んでいた裕明の俳句も実はかなり動的であることに気づいた。
大学も葵祭のきのふけふ 『山信』
引こうと思えばいくらでも引けるのだが、第一句集から。
この句は名詞と助詞のみで形成されており、形式上は静かでただただ美しい句なのだが、「きのふけふ」という時間軸での圧縮を考えると葵祭の時期の華やぎを見せる大学を行き交う人々の僅かな高揚の昨日と今日が二重写しのように見えてくる。さらに、この句の「大学」は平安時代の大学寮を想起しても勿論よい。
そう読むと、昨日と今日という短い時間軸と「大学」という言葉を通して繋がる眼前の大学と大学寮という長い時間軸とで人々で賑わう大学(寮)の景色が多重的にオーバーラップする。
この情報量の多さを動的と呼ばずしてどう呼ぼうか。
裕明の句は古典調とも言われる。そういう場合現代において古典を志向するという時間を遡るベクトルが強調されがちであるが、古典を身にまとって現代を詠むことで生じる上記のような多重性や奥行きを考えると、古典から現代へ還ってくるベクトルも当然議論されてしかるべきだろう。
その双方向的な往還こそが実は俳句の本質の一つではないかと今は考えているし、僕もそれを生かした句を作ってゆければと考えている》
この生駒の言葉から要点を抜き出すと、
・時間軸での圧縮
・二重写し
・景色が多重的にオーバーラップする
・情報量の多さを動的と呼ぶ
・〈現代において古典を志向するという時間を遡るベクトル〉と〈古典から現代へ還ってくるベクトル〉との双方向的な往還
生駒大祐の俳句が少し見えてきた気がする。多重性、奥行のある舞台が設定されている。言葉や意味に飛躍があるときは、そこに時間や距離を見出せば、同じ空間に迷い込んでいけそうである。もう一度、そして今度は、生駒が俳句に設定する舞台に上って、彼の俳句を楽しみたい。