コロナ禍の空白の四年

コロナ禍の空白の四年

        2023/11/14

        十河 智

 

 少し前に書いた、ある日のこと。いつも似たりよったりで暮らしているので、投稿する。

 

 今日はどこにも行かず、一日、家で過ごした。

 朝起きて、支度をして、洗い物もして、洗濯も、型通り洗って干して畳む作業。掃除は今日はやめ。食べ物はあるので、買い物も行かなかった。

 朝は、パンとミルク、昼は、カップヌードル、夜は、ご飯、海老の天ぷらと生野菜サラダ。揚げながら食べた。

 この頃自分の認知度を確認しようと、昼ごはん何食べた、昨日の昼は何だった、と自問してみたりする。危ないのだ。思い出すまでに時間がかかる。付随する手がかりとか行動を繋げないと出ないこともある。

 少し前には、自分の芯のようなものに自信があった。経験、経歴、など、土台として認識していた。しかし人生長くなり、75歳を過ぎると、そういう確かにあった自分も、遠い過去のものになって、記憶の底に沈んでいる。もう履歴書を書くこともないだろうし、ことは収まっているのだから、日日暮らせていけていれば大丈夫、とは思うのだが、気になるとき、不安になるときもある。何人でもないただの老人に慣れないといけない。

 買い物メモ、予定メモを必ず書くようになった。カレンダーと、手許の紙切れと、両方に。

 生きているから暮らしている。夫婦二人で、生きてゆくしか術がない。ご近所中、この住宅街はそんな夫婦ばかり。散歩する人も減ってきた。コロナで、自治会ですら集まることも無くなった。

 少し前まで、人を思い出すのに、「あの人はどうしているだろうか?」、それが「あの人は元気にしているだろうか?」になり、今は、「あの人は生きているのだろうか?」に変わりつつある。

 一年に一回あった会合が暫くない状態が続き、再開の機運があるが、状況によっては、行けないことも出てきた。また、企画する労力、活力のある人がなくなってきた。コロナ禍の四年近くは、私達の世代にとって、活動期の最終段階でもあったのだ。そこをすっかりもぎ取られた感がある。

 つい最近、「自治会まつり」を4年ぶりに開くという通知とバザーの食券の申込みが回ってきた。寝屋川の名の知れた寿司屋の巻き寿司を一本、店に行って食べたことはないのだが、食事の支度が減るので、毎年のように買っていた。今回もそれを注文した。楽しみである。

 

枯葉舞ふ人の生死を思ふとき

揚げたての海老の天ぷら寒夜なり

コロナ禍の四年を惜しむ冬初め

巻き寿司を師走自治会まつりにて

齢八十呼ばれれば行く忘年会