捜し物はすぐ目の前に


捜し物はすぐ目の前に

       2023/10/06

       十河 智

 

 二日間、無駄に探しものをしていた。この頃の呆け、老化現象のまたの上塗りである。

 この月末に、馴染みの、大学時代のクラブ仲間との同窓会的一泊旅行がある。その用意の布製鞄を探したのだがどこにもない。軽くてナイロン製で手のひらサイズに畳んで仕舞える、便利で愛用のバッグである。前に使った後、荷物を整理して、畳んだものをしまってあると思っていつもの引き出しを探すのだが、見つけられない。

 記憶を辿る。つい最近別の仲間、「里」という句会誌の投稿、購読の会員たちと、甲府へぶどう狩りに行った。その行程を振り返る。一泊の宿ではなんの支障もなく、一夜過ごして、朝の迎えの車のトランクに入れ、JRの長野駅まで送ってもらった。一人ではなかったので、順に受け取って、駅近くの鰻屋へ入った。鰻屋でも、入口で預けた。

 そこから記憶が飛んでいる。鰻屋を紹介してくれた人をよく知っている仲間に連絡して教えてもらい、紹介者に鰻屋の連絡先をきく。名古屋には結構鰻屋が多くて、駅チカの鰻屋だけでは特定仕様がなかったのだ。その紹介してくれた句仲間からも問い合わせが行ったらしく、件の鰻屋に電話して、忘れ物の鞄はないかと聞くと、反応はすごく早く、しかし、予想に反して、「鞄は無いです。」と、言われる。

 そうなると次はどこだろう。暫く途方に暮れる。家までは持って帰ってきているのか。むかしJRや京阪で忘れ物をしたことがある。そのことを思い出していた。どの鉄道会社もお忘れ物センターというものがあり、たいてい辺鄙な車庫のある駅の一角なのだった。

 どうしても思い出せない。JRのお忘れ物センターに聞くしかないかと思っていた、そんな時、協力して色色と探してくれていた主人が押入を開けて、「この荷物何?」と言ってきた。「えっ!」と、覗きに行くと、次の一泊旅行のための準備ができた太った鞄があるではないか。

 一件落着、ではあるが、自分が不甲斐なく情けない。こんなことは今までの自分ならありえない。そんな思いで、泣けてきそうにもなった。

 こんなことがなくても、老化現象が目に見えて、いろいろの仲間とやっている、年の一度の旅行や食事会への参加は、企画自体が終わるものや、私が参加を諦めるものも今後出てくると思う。楽しい老後もそろそろお仕舞。やはり、いくら老人が若若しく活動的になったといっても、八十歳は大きな山場なのだ。近所で集まってお喋りはできても、荷物を持ち、切符を買い、駅の階段を登り降りする旅は、もう無理と、体も頭も拒否する感じが濃くなってきた。

 現実を受け入れなければいけないのだが、特に同学年の集りでは、体力のある人がいると、つい自分も同じくらいできるように思うのだ。楽しい旅だったが疲れ果てる、という結果になる。ほんとにみんな元気でよく歩く旅行計画を遂行する。私は、お寺の入口の茶店で待ったり、本来見るべきものを見ない観光にさえなることがある。それでも、嘗て青春をともにした仲間との再会旅や、日頃は会えない句友との吟行旅、行かないでいられようか。だけど、自分の行けば歩けず、人を待たせたりしてしまう能力低下を認識するべきだと、肝に銘じようと思っている。

 だんだんに行きづらくなっていく。

 今まで十分楽しんできた。そう思うことも必要だ。

 見つかった旅行鞄は、この月末の名古屋への同窓会的旅行を終えたら、娘のところへ、迎えに来てもらって、連れて行ってもらうとき専用になるかもしれない。

 

自らの呆け具合知る夏の闇

定例の夏の旅行や皆元気

鉄道の路線の端の大夕焼

お忘れ物センターにある日傘たち

夏祭名古屋最後の同窓会