山科へ、50年ぶりくらいに。

山科へ、50年ぶりくらいに。

          2023/4/30

          十河 智

 

 つい最近山科へ行くことがあった。故郷高松の俳人さんが、山科を吟行するのだが、と同じ場所時間で吟行をやりませんかと誘ってくれた。句会はしないということだが、山科は、個人的に思い出の場所、学生時代3年間下宿し住んでいた。吟行会に参加して、ほぼ半世紀ぶりに山科を歩くことにした。

 その日はあいにくの雨だった。JRの駅で、誘ってくださった俳人さんと挨拶をして、疏水の方へ句を作りに登って行った。他の方もいたと思うが、傘が邪魔して、あまりわからなかった。

 句を作りに行った場所はちょうど洛東高校の正門に繋がる橋のところで、広い高校の運動場も金網に囲まれて、見渡すことができた。金網には、高校総体での優秀な成績を垂幕で掲げていた。雨でグラウンドのは誰もおらず、潦はそこここに生じていた。雨でもやる部活もある様で、学生が校門をたまに入ってゆく。

 雨でもあり、私はどうしても遅れがちになる。自分のペースで歩きたいし、人に気を遣われるのも負担で、先に行ってもらう。いつものことだが、あまり動かず、学校の門に繫がるその橋近くでぶらぶら句を作っていた。川が流れ、鳥も飛び、人も通る。句を作るのに、困ることはない。

 昔のことが浮かんできた。山科というところは、日常生活には便利で、川があり、山があり、起伏にも富んでいて、遊べるところだった。住んでいた頃、下宿友達と春や秋にはお弁当を持って疏水の土手ですわりこんでおしゃべり。醍醐も近く、田畑を横切り、お寺に桜を見に行った。お金のない学生には、いい休日が送れる土地だった。醍醐の花見では後に実らぬ恋の終わりを経験している。告白を期待してのデートだったが、さんざん田んぼ道を歩き、お寺で花を見て帰っただけだった。後で聞けば、許嫁が幼いときから決まっているような旧家の人で、いよいよ結婚をせまられて、最後にと、訣別のデートとしたようだった。旧家って何なん。泣いた。そんな辛い思い出も、山科にはある。若い、心激しく揺さぶられ続けていた頃である。

 山科駅では、洛東高校京都薬科大学の学生の乗降があった。逆に京都に多くある大学や高校にも、多くの学生が通っていた。その頃は住宅地がどんどん南へも北へも広がり続け、通勤は京都にも滋賀にも行く人がいた。人の溜まり場、かつ交差点のような地域であった。山科でJRと京阪が最も接近し、乗り換える人も多い。山科駅から京都薬大までの新旧の道路沿いには、学生が利用する食堂があり、よく行った。不思議なことに味の記憶はあまりない。あの頃はただ生きるためにお腹が空いたから食べていた。他に考えすることがいっぱいあったので、食べることへの執着があまりなかった。そんな学生向けのごはん屋さんは、今もあるのだろうか。

 できれば、御陵大津畑町の昔の下宿付近まで歩いてみたかったが、路傍の石に腰掛けながらは、雨では無理なので、今の私は諦めざるを得ない。せっかくの山科だったが、この日は、雨が降っていたので、あまり動けなかった。少し悔しく残念であった。

 一人吟行を果たし、このまま帰りますと、高松の人に伝えて、駅にあったスタバで、休憩。お昼のサンドイッチも食べた。小一時間ほど、句を整理していた。バスがロータリーを入っては出ていく。三条まではバスで帰ろうと思う。バスで地上の景色を見ながら移動するのは、とても好きだ。

 バスで東山を越えた。三条が地下に潜って、地上はがらんどう。これもどうかなと思う。確か昔は、もう少し店があったと思うのだが、寂しい限りだ。

 あまり遅くならずに、家に帰りつけた。

 

 

疏水飛沫く若葉の元気源となり

四月来る駅にぶつかる人ばかり

通学のまだ知らぬ仲新入生

大学も高校もあり春の駅

菜種梅雨高校に入る橋とあり

駅と下宿その間めしや暮の春

燕醍醐に寺と田畑かな

春の雨いつもは座る路傍石

春夕焼告白されぬまま別れ

三条の地上に春の愁あり