金子 敦句集 「シーグラス」を読みました。

金子 敦句集 「シーグラス」を読みました。

        2021/05/15

        十河 智

 

金子 敦句集 

 「シーグラス」

   ふらんす堂

 

をお贈り頂き、読ませていただきました。

 

 シーグラス、この言葉が、私には新しかった。金子 敦さんの制作段階のコメントなどで、浜の砂に交じる、風化されたガラス片とわかった。

 まだシーグラスという言葉が多分なかった頃、桂浜に修学旅行に行った。60年以上前、小学6年生だった。浜辺で女の子たちは、綺麗な光る物や貝殻、小石、色んなものを集めた。ペットボトルやポリ袋の残骸など皆無の大昔。集めた「シーグラス」は、どうなっただろう。誰かは大事に今も持っているかな。

 この本のカバーの透明な丸みのガラス片、そんな記憶を呼び覚ましてくれた。

 見返しの海の青、これから読むページに散らばるシーグラスの光、艶、そして丸みを想像して、興奮する。

 薄い青グレーの栞、仲 寒蝉さんの案内で、この美しい渚を一巡りできた。

 金子 敦さんの句集を読むのは、「音符」についで、ニ冊め。敦さんの本は、「音符」もですが、装丁からのイメージも含めて、句集としての一冊に、作品としての価値、芸術性を見いだすのです。

 

 あとがきに、この本の出版は、

「新緑の光を弾く譜面台 金子 敦」

 という句の中学校国語教科書への採用が決まったことの記念としてと書かれている。

 これは多くのこの句集を読んだ方が、書かれているように、一句一句が浜に散らばりキラリと光るシーグラスの一粒ひと粒で、色も輝き具合もそれぞれで、多様である。

 句作において、題材、表記に、境界を感じさせない。ある意味、作家魂で、次々と挑戦している。その結果の厳選された、俳句にできることのお手本、集大成の一面も持つ句集であると言える。

 私達も、そうであったように、学校で習った俳句、その作家をもっと知りたいと、手に取った若い子たちが、この本の句作における果敢な挑戦を感じ取り、シーグラスのきらめきに感動し、触発されて、次世代の俳句作家や読者になってくれることを予感し期待しているのです。

 

好きな句を挙げます。

 

 選ぶというのはとても難しい。各年ごとに5句と決めました。

 

 

2016年

 

初空へ龍のかたちの波しぶき

 

北斎の波の図を思い浮かべました。)

 

金色の印泥を練る淑気かな

 

(正月らしく、落款の印泥に金色を選んだのでしょう。押したあとの「淑気」、金色が作り出すのです。)

 

カフェテラスの椅子は丸太や花菜風

 

(少し郊外の農村や山の麓の飾り気のないカフェテラス)

 

ゆく夏の光閉じ込めシーグラス

 

(表題に採られたシーグラスの句。)

 

犬の尾のくるんと巻いてクリスマス

 

(部屋犬がちょこちょこツリーの前を行ったり来たり。尾っぽのくるんと、かわいいこと。)

 

 

2017年

 

エレベーター満員バレンタインデー

 

カタカナ語であるけれども、みんなが使う普通の日本語。これだけで情景がよく見える。)

 

強面が金魚一匹提げて来る

 

(ユーモラス。夜店で釣ったのだろうか。この金魚は、お茶碗で飼われるような気がする。)

 

金魚鉢覗く真面目な顔の猫

 

(狙ってますね。)

 

積木のaにappleの文字小鳥来る

 

(アルファベットも日常には必ず目に入るもの。さり気なく使う。)

 

からつぽの菓子袋飛ぶ枯野かな

 

(お菓子の別の側面から捉えた悲しい句。私も奈良や京都の田畑広がる所でよく見かける光景。保津川下りでは両岸のプラスティックゴミを船頭さんが登って清掃していました。この菓子袋もどこかで木に引っかかるのでしょうね。)

 

 

2018年

 

トーストに大盛りの餡山笑ふ

 

(美味しそうです。大盛りが、敦さんらしい。気持ちいい朝がよく出ています。)

 

ミキサーに色混ざり合ふ春休み

 

(春休みの朝、お母さんと野菜ジュース作り、ミキサーに入れたあとは、手を引っ込めて、待つ。色が混ざり合うのが楽しい。)

 

短夜や鳥獣戯画の中へ入る

 

鳥獣戯画、大好きです。画集か図録をお持ちなのかも。見ているうちに、あの中のうさぎになってしまっている自分がいるのでしょう。楽しんでいるうちに、夜が明けてきます。)

 

母校の門より出て来たる夜学生

 

(この情景、見覚えがあるのだ、私には。私の母校も、普通科高校で夜学を併設していた。クラブ活動一緒だったものもある。後に大学時代の友人が、夜学教師で、年上の生徒ばかりだと話していた。この句の夜学生はどんな風貌をしていただろうか。)

 

買物メモ父が秋刀魚と書き足しぬ

 

(この句、私の家の老いた夫婦の日常である。買い物に必ずメモがいる。お父様の場合は、ご自分で行かれないのかもしれない。今日食べたいものを尋ねられて、書き足されたのだろう。)

 

 

2019年

 

ぬかるみは一枚の画布落椿

 

(落椿は、絵になる。苔の上に散乱させた図もよく俳句にはあるように思う。しかしここではぬかるみが画布だという。品種を見せる植物園に一本ずつ離して植えられているのだろうか。黒っぽい背景に、少し沈み込む紅や白の花。)

 

キーボードの enter 薄れ花の雨

 

(何もすることはない、出かけない生活。パソコンに向かい原稿書き、句の整理、そんなことで毎日過ごされているのかも。enter キーは一番良く使う。長い間に字も薄れてきた。外は花を散らせる雨が降っている。)

 

ポーの村よりやって来る黒揚羽

 

(この句を読んで、あれっと思った。ポーなら黒猫なのに違う、それにポーの村って何、と。先にこの句集の感想を書いている人の文章から、私の知らない、ポーの村の物語があるとわかった。人の出入りは封印されていて、中には薔薇が一面に咲いているという。クロアゲハが見てきたものはなんだろう。一度は読んでみたい物語である。)

 

ドローンを見張るドローン神の留守

 

(監視能力、というのは、監視するほうがされる側と同レベル以上でなければ、意味をなさない。ドローンの話であって、もっと深い話であるかもしれない。神の留守、季語として配置されているが、もっと深い意味を持つかもしれない。均衡を保つ世界ではなく、手を携えあってともに歩む世界でありますように。)

 

オノマトペを考えながら落葉踏む

 

(まさに俳句を作る人の日常であろう。さらっと言ってはいるが、かなりの呻吟であったに違いない。いいオノマトペにたどり着けたであろうか、いつかどこかでその句が読みたい。)

 

 

2020年

 

二円切手の淡きむらさき春愁ひ

 

(つい最近まで、私も二円切手を貼っていた。投稿するのに返信用も含めて結構使うので切手を大量買いしてしまう。不足分の二円、一円切手である。春になる前に私は終わったが、敦さんはまだ続いたのかなと思う。二円切手は、冬の柄、エゾユキウサギの白に、バックは淡いむらさき。春になると、温かみに欠け、合わないとも思うようになったのかも。) 

 

棄てられしキャベツの芯の白さかな

 

(私は、キャベツの芯は、刻んで使ったりもする。白さが際立つ時は、捨ててしまうかも。そんなことを考えながら読んだ。ただ、この芯を水栽培して、台所に小さい緑を添えられることも、最近フェイスブックで学んだので、試しにやっている。)

 

日向ぼこ白猫来ればしろと呼び

 

(楽しい句である。日向でのんびりしていると、白猫が来る。みんな多分しろと呼んでいるのだ。大体の人は、「そうよ、私もしろと呼ぶ。」と頷いている。)

 

いま90%ほど凍つる蝶

 

(この句に、釘付けになった。こんな表現に出会ったことがない。が、程度としておおよその想像はできる。作者と同じ目線で見つめているような感覚が起きた。凍つる、温めれば活動再開もあり得る、そう思わせる言葉だ。)

 

ホットワイン『Moon River』を聴きながら

 

(『Moon River』が聞こえてきます。やわらかく、心地よく。ホットワイン、甘い声が、香りに重なり、一人の時を癒やしてくれます。『Moon River』と書くことで、よく聞いたあの音楽が流れるのです。)