私の俳句、そして詩情に悩み

私の俳句、そして詩情に悩み

        2023/02/10

        十河 智

 

 8日水曜日は句会だった。大山崎町のふるさと文化センターに、行きは高槻まで主人に車で送ってもらい、阪急で大山崎まで出向く。自分一人の運転で往復するには、少し距離があり過ぎるのだ。

 この句会は、終わると、大山崎町の駅近くのお酒の飲めるカフェで、懇親会をする。私はお酒は飲まないのだが、このカフェのロイヤルミルクティーは気に入っていて、毎回の定番にしている。

 俳句について、ここで交じわる句会の人たちのかなり深いところの論議、いつも興味深く聴かせてもらっている。そういう機会に、周りの人たちの掘り下げる見解に耳を傾けるのだが、登場する俳句、俳人の詳細を知らないのと、歳のせいにしてしまうが、聞いたことが記憶に残らないということもあって、毎回毎回、初めて聞く話になるのだ。

 私は最近気づいた。他の人達ほど俳句を考えてはいないようである。というより、そこへ行きつく術を持っていない。

 この定型に自分の表現したいことが上手く乗ってくれることがあり、それが嬉しくて俳句を作るようになった。だからか、表現の一つの方法であって、俳句の型式について、深く考えたりすることはない。

 縁あって、唯一師と目した田中裕明が早くに亡くなり、導いて貰える人を失った孤児のようなものである。裕明の「ゆう」が唯一属した結社だった。インターネットを基本とする俳句会にも投稿するが、希薄な繋がりという感じが拭えない。

 極めて特別な境遇に置かれた人が、あるときは感情の赴くままに、あるときは冷静な記録として、またあるときはフラッシュバックされる情景として、表現に俳句を選ぶこともあるようだ。紀行俳句、戦争俳句、療養俳句、ありとあらゆる分野で、表現方法として、俳句や俳文は選ばれているし、そのような句集や文章作品もよく読ませてもらう。句集を出した方が、献呈、贈呈という形で送ってくださることで、俳句が向こうからやってくる、ということもよくあることだ。

 それぞれの書物に、ものを想い、感動する。対峙した表現の奥にある気持ちには揺さぶられる。しかし、私は、その文体の出来不出来にまでは気が回らない。すぐに言葉の意味の渦に巻き込まれていく。作者が選んでそこにおいた言葉、それが私を虜にする。

 俳句に話を戻すと、俳句の短い型は、瞬時の閃きに充分呼応できるし、記憶もされる度合いが大きいと思うので、結果、表されたものは実に生生しく状況を再現している。

 俳句は詩であると、詩情を醸し出す文芸であるという。私は、俳句の作品を読むと、それがよくわかるのだが、自分が俳句を作ろうとすると、わからないのだ。形式と韻律による詩のようなものは作れると思うが、迸る、溢れ出る詩情というものを自らに経験したことがあっただろうかといま疑問符が踊っている。

 まあ矩を超えることは難しい。持てるありのままで、俳句を作り、句会で人と交流し、残りの人生を、やり過ごしていこう。そう長くもない筈。

 

直行の往路乗り継ぐ帰路朧

春夕月ワイングラスとティーカップ

蝶生まれ句に調べあり風に乗る

テーブルに俳句論議やコート脱ぐ

事始俳句すらすら暗唱す

蜃気楼孤児の求めて止まぬ家

春三日月インターネットの投句欄

春嵐俳句に気持また叫び

読む我を揺さぶる言葉春一番

アマゾンで話題の句集春の雪

春雷や切り裂く大樹ありにけり

詩であると我言い切れず鳥雲に

溢れ出る詩ある春の小川かな