【南アルプスの西・東】 関東へ甲信越へ夏鴬 第一章

南アルプスの西・東】

関東へ甲信越へ夏鴬

第一章
 長野県下伊那飯田市天竜峡

いつも年に一回する大学時代のクラブ仲間の旅がある。今年は、研究テーマが防災と町作りという
教授が紹介してくれた、天竜川沿いの長野県下伊那地方の市や町の地域活動の活発さに触れるというのがテーマであった。

1 静岡の娘宅へ前泊

いつものことながら、この旅の会は、集合時間が早いのだが、私の乗り換えのモタモタが気になり、用心のために、集合駅の豊橋により便のいい静岡に前の日から泊まり込み、豊橋駅に朝ゆっくりと、予定を立てた。 5月11、12日の寝屋川から京都を経て静岡まで、途中の景色、駅の有り様を切り取った。
 北河内ののんびりな田園風景をバスで、京都駅の修学旅行シーズンを垣間見て、近江平野、静岡の茶畑、静岡駅のホビー展の賑わい、結構この時期ならではの面白味が切り取れた。

夏の旅交野より京まず目指す
高速の下稲苗の育ちゐる
クーラーのほどよく寝入り四十分
軽鴨の子やだらだら続く列であり
京都駅夏日修学旅行生
引率の胸に大事故夏の声
もう田水張りたるところどころかな
八十八夜過ぎてさつぱり刈り揃ふ
新樹光ホビー展へと誘ふ駅
夏暑しお茶もイコカで買ひにけり

2 初めて乗る秘境の飯田線

 豊橋駅へは静岡から新幹線で40分ほど、こだまで行った。JR寝屋川公園駅(東寝屋川駅改め)から切符をテレビ電話のみどりの窓口で手配して買っていたので、出発ホームを探して乗ればよかった。このホームで10時に待ち合わせ。1号車にみんな集まってくる。が、席は飛び飛び。この会の繋がり方をそのまま表しているようだ。1年に1回それぞれが何かを探しに出掛けるような旅をするのだ。あまり人のことは構わない。参加すれば必ず面白い発見をして帰ることができる。何があるか、企画者任せである。同じクラブだったというだけで、皆それぞれの達人でありながら、詳しくそれぞれの人生を知ってはいないのだから。旅の企画に出会って、初めて、ああこの人はこういうことをよく知っているんだ、これが専門なのかと感心する。こういうところに連れてきてくれるのかと感動する。そうしてかれこれ30年続いているのだ。
 飯田線の話に戻ろう。
 山深い秘境の駅と言われる無人駅の2、3ある路線であった。町を過ぎると、山の木々の合間を擦るように過ぎてはトンネルに入る。それを繰り返す。青葉が鬱蒼と迫り、息苦しいくらいであった。たまに、この線でも乗務員が渓谷の景色などのスポット説明をするのだが、梢の隙間からは断崖絶壁、谷間の底の大石の端が少し見える。あんまり覗くと
列車からこぼれ落ちそうなそんな気がする溪である。
 単線は急行でも待ち合わせが長いことがある。2時間ちょっとかかって、山の中の天竜峡駅に着いた。昼食を取るココロファームビレッジからマイクロバスが来ていて、連れていってくれた。
 ココリズムというレストランで取れ立て野菜のビュッフェつきのランチコースをいただく。
 農家のありとあらゆる可能性から、生産者を集め、消費者と結びつけるためのシステムを考え続けたという社長さんの話が聞けた。
 ココロファームには、地元で跡を継ぎ、農業や畜産をやろうという若い人たちが頑張ってきた成果がある。ここにはココロマルシェという生産者直結の市場があり、季節や生産者によって多種多様の野菜が、棚に並ぶ。シェフがチェックして商品化したジュースや、ソース、ドレッシングなどの農産加工品も売っている。収穫を楽しめる農場もあり、バーベキューのスペースもある。それぞれ生産に工夫を凝らした農業者たちが、需要にあった、野菜を納めに来る。
 別に、生活菜園という会社もあって、様々な消費者ニーズに応えた農法での生産を行う生産者が出資、グループを作り、会社は、地元での市場、都会や消費地への直結の販売、特別な需要の開拓などを行っている。20年近くなる活動を、まだまだ意欲をもって、社長が語ってくださった。
 サラダビュッフェの並ぶ奥で、シェフがランチを作ってくれていた。全て見せる美味しさなのだと思った。

飯田線下り》
青葉山貫き線路道路かな
目に青葉小さき駅に着きにけり
年一度五月の旅の伊那路かな
天竜峡トンネルいくつ夏木立
青蔦の廃屋隠しきれずなる
カタゴトカタカタ続く線路と夏河原
青葉より谷底の岩さざ波も
信濃夏に葉物のふんだんに
まる見えの調理新鮮夏野菜
万緑の山川跡を継ぐ人よ

3 天竜峡を行く

 昔から有名な天竜下りと唄がある。それは知っていたのだが、飯田市がその天竜川沿いであることを来るまで認識がなかった。天竜川がどう流れているかどこから太平洋に行くのか、新幹線で横切る他の川ほどに気に止まっていなかった。
 ココロファームから、マイクロバスで天竜峡の川下りの天竜峡港まで連れて行ってもらった。
 荷物を観光案内所のロッカーに入れ、船に乗るまでの一時間ほどを川に沿うコースを散策することになった。歩くのが遅い私は、ちょうど半分のところにある吊り橋までで、引き返すことにした。それでも道筋には、夏の山野草が楽しめたし、案内板や道標もしっかり立てられていて、歩きやすかった。
 吊り橋の真ん中まで行き、川の景色を満喫して、私は引き返した。健脚の人たちは吊り橋を渡り、急な階段を展望台まで登り、また降りて、対岸のコースを川下りの天竜峡港まで戻ります。地図では私の戻りより距離もありそうだったが、実は私の方が遅いくらいだった。案内人の方が港のこちら側で車で待っていてくださり、慌ただしく港に連れていってくださった。皆もう救命胴衣をつけている。
 川下りの船は、他でも案外経験があるのだが、川の流れにそれぞれのまたそのときどきの情景があって、思い出深い体験になる。今回もガイドさんの天竜小唄や去年の台風大雨の運んだ砂の浚渫前の川の中にできた台地、またその影響で川床が上がって浅瀬となっているために起きる操船の難しさなどを、川の左右の崖、岩、洞など、水際や樹に止まる鳥などの説明に加えて話してくれた。
 天竜峡は、昔から筏などで川の運輸交通がなされていたようで、その歴史が古く、昭和時代までは観光客が多かったようだが、今はかなり少なくなったそうだ。
 川下りの歴史も長く、見処が各所にあった。朝飯田線から見下ろした川床の岩を見、秘境の駅を川の方から見上げている。自然の造形で切立った崖の石に名があり、字が刻まれていて、説明してくれる。女船頭さんは、格好だけで、実はガイドさん、説明が上手であった。
 どこでも川下りというとやっていることだが、中間点に無人船の売店船を置いていて、船頭たちが移り乗って、飲み物を売る。ただ、この日は雨模様で、寒いくらい。船頭さんには悪かったが、冷たい飲みものは需要がなく、ビールを一本、一人が買っただけだった。
 船を操っていた本物の男の船頭さんが投網を見せてくれる。魚が掛かることもあるというが、このときは掛からなかった。掛かったときは、それで鳶を呼ぶという。岸の赤松の枝に作られた鳶の巣を教えられ、冗談のように、ガイドさんは、鳶を餌付けしていると言って笑った。
 その後大粒で雨がぱらつき出した。船には、農業用のハウスに使うようなビニールが幌として広げられるように取り付けられており、皆で頭の上を順に広げていった。ほんの数分間だけ降って、下流の港につく頃には小止みになっていた。折り畳み傘は開けると面倒な気がして、使わなかったが、それでも大丈夫だった。
 飯田市の公民館活動と町作りに関わってきた元市職員の方が、この日天竜峡駅到着から、親切な案内人としてお付き合いしてくださっていた。その方が、実は私の遅れを補ってくださり、案内所から降りる港まで、ご自分の車で皆の荷物を移動させておいてくださったり、既に大変お世話を掛けている。
 その日の宿のマイクロバスが迎えに来てくれていた。山道を30分ほど行くと、「月下美人」という宿に着いた。

天竜峡
カタクリの花密やかに天竜峡
つつじ橋までを歩きぬ露涼し
汗を拭く頃なり天竜峡木陰
木下闇橋の袂の鉦響き
お疲れ様天南星(テンナンショウ)のお辞儀して
遊船へ這ひつくばつてへばりつき
天竜小唄草木靡かせ夏の天
去年豪雨始末浚渫夏来る
川下り売り子へ変はる船頭は
天竜峡万緑の中の駅
投網するトンビと烏飛び来る
秘境駅崖の松にはトンビの巣
水にゐて黒きは川鵜川烏
船に幌天竜峡に雷雨あり
遊船を降りる頃には上がる雨
棲み人にもてなす心青嶺ゆく 

4 秘境のホテルのおもてなし

 日が長いので、6時近くにホテル「月下美人」に着いたときは、明るかった。
 ここもよくある増築で、慣れればなんということはないが、エレベーターや廊下の繋がり具合が、入り組んでいた。ひとつの階の一角を私達で占めた。今回の参加者は夫婦がと男性が多く、私は一人、大きな部屋をあてがわれた。かなり疲れていたので、夕食まで寝入ってしまった。
 食事は豪華ではないが工夫を凝らしていた。お刺身もあり、山で養殖している魚のようだった。チーズフォンデュが珍しかった。おかみさんが、最後にチーズのおせんべいを剥がして廻ってくれた。
 いかにもよく気がつくおかみさんという感じで、説明や所作がきびきびしている。
 何度か「午後8時よりロビーで、ミニコンサートがあるのでお集まりください」と、おかみさん自らアナウンスする。ただ、「おいでになってのお楽しみ」と、演奏者は教えてくれない。食事が終わり、部屋に帰ってゆっくりする間もなく、またおかみさんの声、館内放送でロビーへ誘われる。
 ロビーで、えっと思う。続々人が集まってくる。団体もうちより大所帯のところがあったり、家族連れもいる。100人まではいかないだろうが、かなりの大勢である。ここはこんなに泊まっているのかと、驚きがあった。
 おかみさんとご主人の支配人が前に立って、家族経営のホテルでどうおもてなしをすればと考えて、こんな風に家族でミニコンサートを開いていると切り出した。ほぼ毎日、夏は、玄関前の広く取った車寄せに、ござを敷いて満天の星を眺めながら、やることもあるという。この日はあいにくの夕立であった。
 支配人がまず、ザ ブロードサイド・フォーの「星に祈りを」を歌った。次におかみさんが、「エリーゼのために」「冬ソナのテーマ」「アメイジング グレイス」を、嫁入り道具というピアノで弾いてくれた。跡継ぎの息子さんがギターで伴奏して、「ふるさと」を、大合唱。
星空がは見えない埋め合わせにと窓に施したデコレーションをキラキラさせて、季節外れのジングルベル。
 素人離れとまではいかないが、きっちり聴かせて貰えるくらいの力量で、本当に知り合いのホームパーティに呼んでもらったような雰囲気であった。
 演奏が終わる頃には雨が上がっていて、雲間から星が覗き始めた。おかみさんが、寝転ぶ訳にはいかないけれどと、空を見上げて、星を指指し教えてくれた。この宿の自慢は降るような夜空の星のようであった。少し損をした気分になっていた。
 月下美人の花も、ちょうど咲く時期に当たれば、見ることができるらしい。
 家族の話なども挟みながら、30分くらいのショーであった。この宿の思い出を作ってほしいとの思いが伝わった。ある意味、予想外の展開を楽しんだ。

月下美人
夏の夜やホテルの家族演奏会
ほぼ百人夏の夜の夢見るホテル
明日産むとふ銀河の向かう遠き実家(さと)
妻に捧ぐ夏の夕べに弾くギター
白雨また古きピアノはドイツ製
青嵐星一つずつ見せてゆき
夕立あと雲の合間のスピカかな 

5 恒例のホームミーティング

 ただ、このコンサートで時間を取り、私達が恒例で学生時代のホームミーティングを再現して、近況や世事を語り合う時間は少なくなった。年を取ったというか、皆角が取れて、テーマを決めて討論というのも、もう二、三年前からなくなってはいるのだが、それでも、泊まる夜は、一部屋に集まり、近頃思うことを語り合った。
 やはり直後だったので皇室と改元が話題となった。奥さん方も私も女性は、雅子様の堂堂とこなしておられるお姿に安堵したと口を揃えた。週刊誌ネタなども出て、ほんとに難しい話をしなくなった。お酒もあまり飲めていなく、お風呂にもう一度入りたい人もいて、11時前には散会。

改元》 
初夏の令和を語る夜更けかな
初夏や新皇后様の佳き笑顔  


6 飯田市の公民館活動とその歴史

 今回の旅のメインは、飯田市の独特で歴史ある活発な公民館活動について、今80歳を越えられてなお啓蒙活動を続けられているひさかた風土舎主宰の長谷部三弘さんのお話を聴き、実践の場所を訪れることでした。
 旅のメンバーの一人が、地方創成や共生などに関わる研究テーマを持つ大学教授だった人で、地域に留まらない交流を伴う地域活動を
目指している飯田市の例を紹介しようと計画をたて、道筋をつけてくれました。
 前日寄せてもらったココロファームは、生産者の立場から消費者との間に直接の道をつけようとする試みですが、この日見せてもらう数々の活動や実績は土地に根差した暮らしを、その土地にすむ人々が知恵を出し合い、行動していく試みです。
 長谷部さんは、昭和から平成にかけての数次の市町村合併で、飯田市となった上久堅という村のご出身です。
 合併によって、地区にあった独自性、当事者機能が喪われたと感じ、それを回復しないとここでは生活が壊れると、活動を始められたようです。この山に囲まれた飛び飛びの集落(村)には、もともと、生活にそれぞれの集落の独自性があったのです。
 飯田市には、現在、歴史的な集落を土台に据えた旧市町村単位に一つづつ、20の自治振興センターと、20の独立公民館が配置されているのです。
 自治振興センターでも、20通りの個性あるオンリーワン地域自治活動が展開されている。各地域に置かれた公民館の活動も同様に20通り、独立して為されている。
 公民館では、さらに分館を置き、文化、体育、広報の
三専門委員会を持つ。市の文化事業の人形劇フェスタへの参加や学習文化的事業、体育大会の企画と実施。広報の内容の取材から、編集、発行も、公民館単位、より住民に近い、分館単位でも行っている。
 住民からの専門委員、市の職員からの分館長と分館主事が2年任期で運営に当たる。
 ここで長谷部さんの強調されたことがある。公民館活動に携わる分館長、主事は市に入職四、五年の若い職員がやるというのが、よく作用しているというのだ。公民館活動の中の学習が、地域の問題を認識させ、専門委員らとの交流による人脈の形成も、行政の円滑さに繋がっていて悪いことではないと。市の職員に、市民のために働くという意識が根付くとも言われた。
 確かに、他の地域のように、公民館長、コミュニティーセンター長が、定年前後のポストではないようで、この旅にお付き合いくださっているもと市職員の方も、長谷部さんご自身も主事を経験済みだとのこと。職員としては、自らの出身地以外で苦労し、考え、家に帰ると住民として、行事に参加する。この二重構造に鍛えられたといわれた。
 地域の自立と、それぞれの集落の個性を打ち出し、地域の振興の道筋は、地域の自主性によってつけていく。これが、飯田市全体としてみると、人材が育成され、「集落の競演」が行われる、町に人を呼び、活性化に繋がっていく。

 長谷部さんは、上久堅地区の合併前の自前の簡易水道の話をされました。山間部で暮らしや農業をやり抜くために、独自で村は水道事業をしていて、管理もきっちり行っていたというのです。また、江戸時代には、このあたりの村には、寺子屋があって、生きていくための教育が為されてきたとも。そういう下地が根付いていての公民館活動であると、おっしゃっています。

 現に老人となったもと現役の私達も、職を離れて、地域で暮らし、少子化の中での役割を模索しています。お話を聞いた後に、私たちの中から、都会暮らしにも、定年後お手伝いしている自治会活動にもとても参考になる、ありがたかったという感想がありました。私たちの暮らし方と違う豊かさを感じました。
活動の合い言葉「むとす」は、「せむとす」から。実現、実践が最終目標なのです。

このような公民館活動の一部として、案内いただいたところです。

★ 農村寄食舎 「ごんべえ邑」

地産地消の食事の提供、囲炉裏を囲む集会所

ここでお昼をいただきました。

★ よこね田んぼ

日本の棚田百選の一
保全に取り組む一方で、小学生の授業としての田植えもここで行っている。

★ 公民館報「千代」
若い市職員担当する広報紙、300号を越えているそうです。

★ 社会福祉法人「千代しゃくなげの会」

保育所建設をなすために地区住民が相談の上、出資。2005年に立ち上げた法人。例え保育児が、一桁でも地域で育てたいと、市から保育園の民営化に移行して、統合や廃園を阻止した。
 その後、「デイサービスセンター千代しゃくなげの郷」も開所。子供とお年寄りの交流も行っている。

《山村探訪》
農場にリーダーのをり花林檎
蒲公英の絮一陣の風に乗る
市田柿産する里の柿若葉
青柿や日当たるやうに低くして
冷し酒とことん話し合ふ暮らし
寺子屋で生きてゆく術青嶺山
田水張る棚田百選の一(いち)よこね
合言葉「むとす」せむとす夏料理
保育所を村に」が実現田植え唄
初夏や化石公園展示室
昔話化石拾ひと夏蚕かな
しゃくなげや介護保育を隣にて
柿若葉公民館の若き主事
夏座敷飯田公民館活動講義
パソコンは苦手な八十夏炉端


7 飯田市内の散策

 飯田市の山村の公民館や施設を見学させて貰ったあと、観光タクシーにまた分乗して飯田市内に向かった。
 私はひさかた風土舎の長谷部さんとご一緒だった。ご自分の幼い日のこと、養蚕のための大きい家の造りであったこと、桑畑と桑の実取りなど、上久堅地区のご自宅までの間お話してくださった。まだまだ地域のリーダー、語り部としてお元気で活躍してくださると思った。
 飯田市では、市役所の駐車場に入り、街のなかを駅まで散策しつつ、電車の出発までを過ごすことになった。
 この旅のはじめから何かにつけてお世話になってきた木下さんが、その駐車場近くの立て看地図でりんご並木、桜並木、中心部の町並み、飯田駅と、お添えに、お土産に買うならとお奨めの和菓子やさんを二軒、教えてくださいました。
  木下さんは、街づくりに深く関わってきた方で、まちづくりカンパニーにも関係しておられるようで、街の開発の概要を、コミュニティー・スペースとなっているところで説明してくださった。どの建物、施設にも詳しく愛着があるようであった。
 ただ、市の公共施設は、動物園も、全てエコを念頭に作られた実験的モデルハウス兼集会場も、月曜は休館日で、いろいろと紹介したかったのにと残念そうであった。
 飯田市は戦災にはあってないが、昭和22年大火により中心部はほぼ焼けたとのこと。戦後のアメリカ軍の進駐があり、今の道路網が整備されたという。進駐軍が去ったあと、飛行機の滑走路としても使っていた中央通りをどの様にするか、議論が起きた。最初は普通の片側三車線道路としたのであった。このとき、車は素通りするばかりで、人の動線が、商店街から離れてしまったという。その反省の上に、町のシンボルりんご並木が誕生したのだった。
 飯田市には飯田・下伊那の文化・経済の中心であったという歴史があり、今も山と海の産物が往き来し、ここで交差する道路網が構築されつつある。
 戦後の大火で焼けた一角にも残る頑丈で美しい倉があったり、火事に合わなかった周辺部にある江戸時代からの歴史的な町割など、これらを組み込んだ、賑わいのある元気な町をつくろう、という目標を掲げたという。
 メインの道路の一つを車は徐行運転しかできないりんごの並木道にした。この並木の世話は地元の中学校の生徒や卒業生(=父兄)に代々委ねられて、今も生き生ききれいな並木道であり続けている。日本の道百選の一となっている。
 両脇の町並みも、飯田まちづくりカンパニーが、理念に添う町づくりを推進しているという。
 中心の商店街とリンゴ並木を回遊できる動線、目に白壁の倉と青葉、下には花壇、所々に役所と文化施設、集会所もあるコミュニティースペース。集約的な駐車スペース。
 火事の延焼をとめるため表通りはより広くとる。町の区画のなかに、表通りと平行に、防火のための裏通り、裏界線を設ける。この裏路地は、地元の人しか知らない店があり、手入れのされた庭があり、子どもたちの遊び場にもなり、町並みのエアポケットとして、飯田市の風情を醸し出しているという。
 隣近所の顔が見え、付き合いがスムーズに行くように、自治の単位である町名、番地は大通りに面して同一となるように区割りされている。つまり裏界線で、町名が変わることになる。
 大人たちが同じ町内の付き合いを表通りの向かいどうしで話し合い、裏通りの細道で、その一角の子どもたちが走り回る。町がうまく交錯して人が交ざり合う。
 飯田は人形のまちとして、人形美術館があり、人形フェスタが開催されるという。自然と融合し、市民も公民館活動を通じてもてなし参加する、天竜峡への入口として観光客だけでなく、見せて住民も楽しめる、催し物を、創製する気運があった。
 まちづくりカンパニーにより、中心部にマンション群も、計画して、景観を考慮しつつ、何棟か建築されており、共に暮らしを楽しむ新住民も受け入れたいという。
 きれいで落ち着きのある町である。

飯田市街》
町の自慢リンゴ並木に青嵐
戦災にあらぬ大火の後の夏
進駐軍整備せし街若葉かな
夏つばめ市立動物園休み
夏始め再生エネルギーのみの家
わが町に誇り令和の世の花火 
皆幼馴染みの路地や涼み台  

8 それぞれに帰宅

 計画を立ててくれた幹事に感謝しようと思う。この年になって、まだ脳に刺激があり、心が動く旅を経験できることが、嬉しかった。特に80歳を超えてなおお元気な長谷部さんの活動は、私たちにもまだまだ世の中もためになれるというお手本をみせてもらえたと、参加者の感想は一致していた。
 飯田駅で、一人は東京へ直通便のバスを利用すると別れた。深夜、寝ていて家の近くに着くという。他の人は一緒に豊橋まで。そこで、名古屋へ在来線に東京へ新幹線上り、私だけ新幹線下り、三方へ散った。
 飯田線の中で、ジャンボタクシーが一台分予算オーバーだったと急遽集金があった。2500円也。幹事さんは最後まで大変なのだが、私は、いつもおんぶしてもらっている方なので、感謝している。
 来年は、母の日を避けて、一週後の予定とすること。予定地は金沢と決めた。
 ちょっと意外だったのは、よそのおうちでは、「母の日」が大切なんだということ。子どもや孫からその日は止めてと要望があったという。たまたま一緒にいれば思い出せば祝ってもらえる程度のうちとは違う。
 上りの飯田線は、午後の下校時だったせいか、高校生が目についた。山の中にもスマホに夢中な子ばかり。会話などしていない。スマホの中で、遠くの人と会話が弾んでいるのだろうか?真横に人が五人も並んでいるのに、没交渉。不思議な光景、不思議な人の繋がり方である。
 この子らも飯田市民なのだろうか?飯田の未来が、このまま続くように、ふと祈る気持ちが湧く。

飯田線上り》

山滴るホームに五人スマホつ子
山茂る真下の川の早瀬かな
結葉や南信濃秘境駅
トンネルは百あると聞く木下闇
卯の花や割り勘超過分渡し
母の日を避けて予定の金沢行 

9 非日常の終わり

 名古屋からの新幹線で、日常へ帰っていく。手帳を取り出し、来週の予定を確認する。京都に着いた。
 取り敢えず今日、交野行きの最終バスには乗れた。この最終便は通勤に使う人が多い感じで、京田辺から高速を降り、松井山手駅河内磐船駅、交野駅と地道で廻るので、少し時間がかかる。
それぞれの駅だけが妙に明るい時間帯である。

《こだま》

ゆつくりとこだまで冷ゆるペットボトル
また来週夏の予定のびつしりと
夏の灯や京大阪のベッドタウン      

          十河智