結婚50年の思い

結婚50年の思い

          2020/06/30

          十河 智

 

 暑い。

 梅雨はいつ始まって、いつの間に開けたのやら、はっきりしない、やけに暑い今年の夏。

 雨の降らない日、クーラーをせずに西日が当たる台所にいると、夕方35度になってしまった。さすがに冷房28度に設定。節電と冷え過ぎ防止の為、一部屋だけ。コロナ禍以来、このところの熱中症アラートまで、「外出は控えて」とお願いされてばかり。その台所の定位置に根を生やして一日過ごす。

 朝7時過ぎには起きるがボォーとしていて、OS−1やお茶、コーヒー、水気のものを立て続けにのんでいる。主人は食パンにジャムを付けて食べるが、私は若い時から朝食はあまり食べない。

 この頃、午前中は、数独に凝っている。81マスのカードを予め用意している。毎日、朝刊の問題を写して、主人と競うのだ。案外時間がかかることもあるが、だいたい15分位。


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 あとは、一通りの家事、ざっとした掃除と、2人だけの食事の支度、それも朝は前に書いたような簡単なもので済ませ、昼は、交代の運転で、40km圏内、一時間の運転で行けるところに、いつも行く場所を決めていて、食事と買い物をする。

 娘からはこの前も、「いつまで運転するの」と心配する電話があった。娘婿も自分の親を説き伏せようとよく電話するという。少し前に老人の運転による大きな事故があって以来、老人の運転は肩身が狭い。しかしうちの住宅街は車ありきのロケーション。住宅街の中には、コンビニ一つもない。丘と名が付く小高いところ。町内には同様の夫婦世帯が多く、見たところみんな車を手放してはいないようだ。ここで育った子どもたちは、学校で家を出てから、帰ってきていない。

 私たちが、昔、親にしてきたことが、繰り返されている。学校に行く子どもたちも少なくなり、小中学校を統合して、一貫教育校へと変わっていくという。教育的見地を市や教育委員会は示しているが、効率化、経済的という側面が大きいような気がしている。

 そんなわけで、いつも二人、一心同体と言い切れればよいがそうではないようだ。まあ家という核に一つの電子軌道、回る2つの電子、といったところかな、と思っている。

 結婚して50年、金婚式だと祝うような感じでもない。今はふらふらとその日をやり過ごす。これから先の死ぬまでの長さを思って、どうなることかと一抹の不安に駆られる。

 ふと思い出すのは、母方の祖父母の金婚式の祝の席のこと。母は5人兄弟姉妹。戦争も挟んで、祖父母のこの50年は、大変な苦労もあった。祝うにたる盛り上がりが、子どもたちに湧き上がったのだろう、孫まで含めて、20人ほど、仕出しを頼んで家の座敷で、宴会を開いた。私の子供の頃は、末席に自分たちのぜんも用意してくれていた、こういう宴会を案外経験したと思う。どの家にも蔵や倉庫に客用の座布団とお膳、食器一式が用意されていたし、お酒の燗と汁物の温めは家でやるので、女子衆は忙しく立ちふるまわなければならなかった。私も配膳やお給仕に駆り出され、好きでもないのに酔っ払いのおじさんの盃を満たしに行かされた。今であれば家族内であっても、セクハラと言われかねないことも多多あったように思う。

 あの時代は金婚式を迎えることは、本当にめでたいことだと思っていた。今の若い人は、離婚の増加と関係あるのかもしれないのだが、一年一年の結婚記念日を大事にするらしい。私達の年代は、経済成長や団塊の過当な競争社会、この頃やっと落ち着いたが、人生の終わりかけにやってきたついていけないネット社会、浮世をただ、あっぷあっぷ、漂って来ただけの人生だったかと思う。故郷に、思い出はあっても居場所はなく、かといって、今の「新興50年」住宅街にさほどの愛着も持っていない。諺に、「遠くの親類より近くの他人」というが、そんな関係が生まれるようには町が育たなかった。家を処分して、夫婦ともに暮らせる介護付き高齢者住宅に住み替える人が増えてきていると聞いた。主人はまだそこまで考えていないらしいのだが、運転は80歳には止めると言っている。後3年である。私も2歳違いで、すぐに追いつく。

 最後の居場所を決めるときはすぐにやってくる。

 

熱中症アラート連発引き籠もり

クーラーは一部屋朝の数独

貼り付けた如くに座して大西日

真夏日のドライブ少し遠くまで

向日葵や真つ直ぐ前を見てをれば

花石榴長きに渡り住みし家

引き払ふ夏青空の下の町