ハイブンの会(2022)

ハイブンの会(2022)

        2022/05/05

 

テーマ 『衣類』 

 

 衣類          

 

最近服を買うことはなくなった。今まで溜まりに溜まったものの中から、ひっくり返し、引っ張り出して着ている。

 流行りに合わせて買っていた頃は、この服は似合わないとか、少し派手になって歳に合わないとか、いろいろ思うことがあったが、今はどれも私の好みで生き残ったものばかりである。愛着もあり、服も服なりに歳を取る、というか、派手さも色褪せたりで、それ程気にならなくなり、着て見ると、「あっ、いいじゃない。」となるのだ。

 

 

花衣昔昔を引き出して  

 

 

 破れたりしない限り、捨てたことはない。だから若い時に着ていたものもある。ただ、体のサイズ、壮年期は、かなりビッグに膨張していたものだから、ゴムで伸び縮みができるウエストのものしか着ることがなく、おしゃれとかデザイン性にこだわるとか、そういうことからは一切遠い何十年かを過ごしてきている。

 ここ十年、歳のせいか、だいぶスリムになっている。おそるおそる昔タンスの奥に突っ込んでしまった服を出して着てみる。「あっ、着られるじゃない。」となるのだ。

 

 朧月スリムでありし頃の服 

         十河 智

 

2022-07

 

テーマ 『自動車』 

 

自動車

 

自動車とそれに纏わる話をオムニバス風にしようかと思います。

 

 うちは地方の県庁所在地で米屋をやっていました。

 商売のために、比較的早くから自動車がありました。店の三分の一を仕切って車庫にしました。車が来ると言うので、子供ながらにわくわくしていましたが、

かっこいい車でないのにがっかりしたことを覚えています。当時のコマーシャルで、日産のスカイラインが憧れでした。同じ日産でしたけど、うちに来たのは、初期のブルーバードのライトバン、ほんと、がっかりでした。この車には叔父の運転で乗せてもらいました。

 

憧れはスカイラインで夏の海

 

 父は五十を過ぎて運転免許を取りました。詳しくは覚えて

いませんが、苦労人の父には、覚える、習うというのが大変だったようです。なんとか免許証を手にして軽自動車に乗り始めました。  

 家族四人が、その軽でお墓参りに出かけたとき、炎天下、

道のまん真ん中でエンストしました。お墓はその少し先の何重にも線路が重なる大踏切の向う側、踏切に入る前で良かったと思いました。JAFなどはまだなくて、大事になって、父が警官に叱られていました。もう乗るなと。その後すぐに我が家から軽が消えて、父も運転しなくなりました。

 

踏切の前のエンスト炎天下

 

 大学生の頃、京都では、家で作った鯖寿司を持ってきてくれた友人が、東一条のバス停前で、お兄さんが車で迎えに来るというので一緒に待っていたことがあります。車は、青いブルーバードでした。

 

 

鯖寿司を渡してブルーバードへと

 

 就職は、母の希望

で、故郷香川に近いところでと、四国、徳島の製薬会社に決めました。田舎の成長途上の会社だったので、人の構成はバラエティーに富んでいました。若い男の子は、18、9でもまず車を買いたいと言う子が多く、3か月分貯まったくらいで、買ってしまう子が出てきました。

 ボディにまだくっついていたバックミラーに布切れをひらつかせて、3台連ねてのグループ旅行に道後温泉へ行きましたね。徳島から松山、途中で私を拾ってくれました。

 

夏の夜や旅に誘ふクラクション

連ねたる風のリボンよ大夕焼

 

 結婚後は、カローラセダンばかりです。主人は18歳から免許を持っていて、後に私も免許を取り、今は夫婦交替で運転しています。

私は、免許取り立ての時に、一度車を横転させ、怖くなったのですが、主人がここで止めたら終わりと運転継続を強く言うので、いまも続けています。いい助言だったと思います。

 幸いまだ不安なく運転できていますが、年齢を考えて、より一層の注意を払わなくてはと思っています。

 

カローラの車幅に慣れて紫陽花は

老齢の車の便利梅雨晴間

       十河 智

 

2022-09

 

テーマ 『石』

 

沓脱石

 

 実家は、四国高松の港に近い街中の米屋でした。表通りと裏通りを繋ぐ形の細長い敷地に、米屋の店舗・居住空間・中庭・土間の台所・納屋のある広場・精米工場と、一本の通路で繋ぎつつ、順に区切られていました。

 三坪ほどの中庭に、大きな沓脱石と庭石が何個か配置されて、植栽が合間を埋めていました。父は、苔を生やして育てようといつもしっとり濡れた庭に保っていました。今も縁側のある座敷に座布団を敷き、胡座をかいて、かなり長く寛いでいた父の姿が懐かしく思い出されます。

 

悠然と胡座かく父庭涼み

 

 昔の家の造りでは、縁側の先に便所と言われたトイレがありました。蹲や手水と言われる手洗い場も石臼で趣きがありました。

 弟がいるのですが、その弟には首筋の上の髪の生え際に、爪先ほどの禿げた傷跡が残っています。もう年を取り、白髪で目立たず、あまり話題にはなりませんが、縁側からこの沓脱石に、3歳位のときに、転がり落ちて、切った傷の痕です。その時のことは、もう70年経っていますが、朧げに覚えています。幼い頃の、フラッシュバックする画像として、脳裏に残る一枚です。

 

弟に古き傷跡暑き夏

 

 沓脱石の上には、庭履きが家族の分揃えておいてありました。飼い猫の昼寝の場所でもありました。こうして書いていると、多くの場面が走馬灯のように浮かんできます。思い出させていただき、少し感傷に浸っております。

 

打ち水や沓脱石に置く草履

 

     十河 智 

 

 

2022-11

課 題  「紙」

 

ペーパーレス時代 …… 紙への郷愁

 

 思えば暮らしの中にたくさんの紙との思い出があるものだ。

 

 昔はインクが浮くような紙だったが、家では商売用にあとは袋にして今のレジ袋のような使い方をしていた。

 袋貼りもやった。大中小と何種類か作った。今はこういう再利用は、企業、工場規模で行われている。

 子供のころ、紙鉄砲や兜を折ったり、紙の服を作ったりして遊んだ。大きな紙で折り紙して、紙飛行機も飛ばしたなあ。

 洋裁の型紙を作るのも新聞紙だった。お習字の練習にも重宝した。薄くて弱そうに見えるが、案外粘りというか破れには強いのが実感である。屑やごみのできる作業スペースには、まず新聞紙を敷いて、そのうえで作業をした。生花や版画、障子張り替え、工作、などなど。

 

夏座敷糊代ずらし袋貼 

 

 気取って巻紙に筆で書いたこともあった。俳句は今も色紙や短冊に書くときがある。額に入れたりして、壁に飾ると様になる。

 実家は字が上手ではない家系なので、結納などは人に頼んで書いてもらう。そんな儀式のときの紙は、しっかりした色も鮮やかな和紙で、日本の心がここにあると思わせてくれる。天皇家歌会始のお歌が記されるあの畳紙、結納のときの目録とかにも使っていたなあ、ああいう紙である。日本の和紙の伝統は、原料の植物から製法、使用に至るまで、まだまだしっかりと継承されている。

 京都の友人の平安時代から続くという紙問屋が、その友人の逝去を切として、今から二十年位前に会社を整理した。その友人の奥さんも友達で、「世の中はパソコンで今からはペーパーレス社会となっていく、紙は先が見えない。」と、会社整理の決断したという。時代の流れに逆らえないということ、パソコンと紙の需要の具体的な関連性を、このお家の話は教えてくれた。

 昔のように、紙のノートに原稿は書かない。この原稿もスマホのノートである。手軽で、便利、推敲はやり易い。

 教室もどんどん変わる。教科書もタブレット型のパソコンのようだ。黒板の横に大きなディスプレイが置いてある。紙は使わない授業である。

 歴史的なものとしてアートの中に紙は残るだろう。また、障子や襖という文化として、紙は続いていくだろう。

 折り紙、コーヒー濾過紙、キッチンペーパー、ティシュペーパー、トイレットペーパー、様々な消耗品としてのペーパー類も、決して他のものには置き換わらない。生身のヒトである限り紙は必須のアイテムである。

 

柔かき紙の恩恵秋高し

 

         十河 智