うちにやってきた本たち 1、2

うちにやってきた本たち

        2021/05/15

        十河 智

 

 大阪に住んで、企業広告のデザインをしている姪が、緊急事態宣言で退屈だろうと、読み終わった本を送ってくれた。

 

①「幸福を見つめるコピー」

   岩崎俊一著


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岩崎俊一さんは、私達がとてもよく知っているコマーシャルを手掛けたコピーライターであるとこの本を読んで知った。

 

あとがきに、「博士の愛した数式小川洋子著からの引用を踏まえて、コピーの書き方についての考えを述べている。

「コピーは作るものではない。みつけるものだ。」と。

 この空中のそこここに、人知れずひっそりと浮遊している「ほんとうのことたち」を、ひょいとつかまえ、誰の心にも入りやすいカタチにして人の前に提示する。

 なにか俳句の極意も教わった気がしたから不思議だ。

 岩崎さんは1947年生まれ、ひとつ下の同世代。この本に載っているほとんどすべてのコピーを見たり聞いたことがある。広告主を見て、記憶が戻ってくる。すごい人なのだ。

 

「やがて、いのちに変わるもの。」

 

「ジャムなのに、果実。」

 

「英語を話せると、10億人と話せる。」

 

「新宿、渋谷、池袋。日本が世界に誇る迷路である。」

 

「電気があれば、本を読む夜が生まれる。」

 

 

エッセイも面白かった。

 

「消えた娘」

娘が迷子になって、探し回るときの緊迫感、恐怖心、実は私達夫婦にも同様の体験があって、その時を再現したような展開にドキドキしながら読んだ。

 

「父親失格」

 娘さんたちの父親像が、自分の評価する父親やっている感からだいぶ下にあることを考察。コピーに出した父親像に、「よっく言うよ。」と返してきたという話。ここは父親に味方したい。親は仕事中も子を思っている。子供は成長するのに忙しい。

 

面白かった。楽しい本だった。

 

②「IKUNAS」


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私の故郷、香川県、讃岐の名物、伝統の銘品、行事、イベントを紹介する雑誌の様だ。

 懐かしい昔を感じさせる今を見せてくれている。

 

 

 大学の薬学部の同窓生の間で回ってきたもの。

「家族の歌」

 著者:

  河野裕子

  永田和宏

  その家族


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 この本の直接の送り主は川柳をやっている人。もともとの発信元の人は、永田和宏さんが主宰の短歌会の設立当時からの会員。

 私も、NHKの短歌講座の講師をご夫妻お二人ともなさっていて、知っていたので、読んで見たいと思っていた本でした。

 産経新聞への家族のリレー連載が土台になっているこの本の執筆の時期は、河野裕子さんの最後の日々と重なっているという。その辺の事情と家族の心情は永田和宏さんの「まえがき」に書かれている。

 「この連載は、河野の最後の時間を家族全員が共有する、それも濃密な時間地して共有するという機会を与えてくれた。」

 永田和宏さんは生化学者らしく、成り行きを淡々と受け止める。死を間近に感じながらも、生きていることを大切に思う。その時々、家族であるがゆえの心配悲しみ。この本には、家族であることのあたたかさが、家族であってよかったという思いが、満ちている。連載を始めようといった河野裕子さんに感謝したいと述べている。

 「お茶にしようか」、と言いながら気軽に交わした団欒の記録に、つきあっていただきたいという。

 永井和宏さんの言葉の通り、少し深刻な最後のときは、さすがに緊張があったが、歌を鑑賞し、温かい家族のつながるエッセイを気軽に読ませていただいた。

 

 

河野裕子の最後の歌》

手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子

 死の前日に、永田さんが口述を書き取ったものだという。

 「うん、もうこれでいい」が最後の言葉だそうだ。

 

もう一首、口述筆記の歌がある。

 

あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき 河野裕子

 病で死期にある人のこんなに鮮明な思いの丈を聞いたことがなかった。力尽きてゆくのに抗いようがなく、思いはじれったさが募るばかり、歌にできたことへの満足、これらの歌は、歌人河野裕子が最後まで生きていた証となった。「うん、もうこれでいい」という言葉は、歌人として生ききったという別れの言葉であると、永田さんは言う。

 

《夫・永田和宏の挽歌》

あほやなあと笑ひのけぞりまた笑ふあなたの椅子にあなたがゐない 永田和宏

 家庭ではそれぞれに椅子や座が決まってあるものだ。そこにいないということ、永遠に戻らないということ、ましてや、明るく屈託のない笑顔。

 笑顔は河野裕子さんのいつもであったようだ。

 

お母さん笑ってゐるよと紅が言ふ笑っておいでとまた髪を撫づ 永田和宏

 お葬式のお通夜のとき、裕子さんが息を引き取って、家族の何かがはっきりと変わったと言う。裕子さんは子どもたちにお父さんを託し、子どもたちのさりげない心配りに、私は、親という役割から解放され、老後よ言う言葉が実感された、それをまんざら悪くない気がするという。

 

遺すのは子らと歌のみ蜩のこゑひとすぢに夕日に鳴けり 河野裕子

 

 歌をいつでも書けるように、三菱ユニの2Bの鉛筆を棺に入れたという。

 

いつまでも私はあなたのお母さんご飯を炊いてふとんを干して 河野裕子

 この歌は娘の紅さんの歌を紹介するこの本の最初に挙げられている。

歌なら本音が言えるから。

乳癌再発がわかったあとの紅さんの歌を紹介して、この家族で綴る歌とエッセイの最初のタイトルである。

 

もっとながい時間があると思いいきいつだって母は生きていたのだから 永田紅

 裕子さんもこの歌を切なく感じたと書いている。優しい心配りのできる娘の、歌に出る心の深みを思ったのだ。歌には、日常のコミュニケーションを超える力があるとも。 

 歌に変わるものを普通の家庭で持てるだろうか。歌という手立てを持って、コミュニケーションを取れた、なんと幸福なことかと、この本を読んでいて、そう思った。書いたものは残り、あとからも蘇る。

 

君に届きし最後の声となりしことこののち長くわれを救はむ 永田和宏

 最後に裕子さんに叫んだ言葉は覚えていない。が、その声に応じるかのように、優子さんがもう一度だけ息を吸ってくれた。和宏さんは、裕子さんの精いっぱいのいたわりだったと感じて、この歌を詠んだ。気持ちのままに散文でも書いておられるが、一首の歌2全て込められているように思う。

 

この本の家族リレーという側面から、ここで、好きな家族の歌を一首ずつ、紹介しておこう。()でその歌のエッセイを要約した。

 

「六十兆の細胞よりなる君たち」と呼びかけて午後の講義を始む 永田和宏

(細胞が専門の大学教授が、小学校5年生に細胞の授業をしたという話。わかるというより、興味が湧けば、成功と言っている。)

 

茄子紺に漬かりし茄子のうまかりき母に及ばねど糠床まぜる 河野裕子

(家事のじょうずな河野裕子さん、そのお母さんに教わった糠床のエピソード)

 

海ほたる波の辺(へつり)を青く染む甲殻類とは知らず見ていき 永田淳

(作者は出版社を立ち上げる前は釣り雑誌の記者だった。絶海の孤島で何日も取材したときの星空と波と海ほたる、もう一度見たいと思っているがはたせないでいると。港に戻り銭湯に行って、心の底からやっと帰ってきたと思ったという、そういう話。)

 

親もまた楽しかりけむあと何年信じてくれるかなどとおもいつつ 永田紅

(小さい頃にもらったサンタクロースのプレゼント、お裁縫箱、今も使っていると言う話)

 

鵙には鵙語 朝朝を鳴き合いて四歳児くらい二年生くらい 植田裕子

(永田淳さんの奥様。こども4人。

 子どもたちのことわざ談義から、これからどんな言葉に出会うだろうと思っていると、口喧嘩に発展していたという話。)

 

 

② 永田和宏河野裕子夫妻のエッセイ

 

この本も、直接の送り主は川柳をやっている人。もともとの発信元の人は、永田和宏さんが主宰の短歌会の設立当時からの会員。

 

 

「京都うた紀行」

   著者:永田和宏 

      河野裕子 

 

 京都新聞に連載、その後、京都新聞出版センターより出された本である。

 ご夫妻で、京都近郊の近現代の歌枕を訪ねられた。


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 この紀行中の2年間は前に紹介した本、「家族の歌」と同じ時期、河野裕子さんは、乳がんの再発で、化学療法の過酷さと向き合っていた。この仕事を決めたあと、再発がわかったそうで、最後の打ち上げの対談を終えてまもなく、河野裕子さんは旅立たれた、と永田和宏さんは書かれている。お二人ともに「最後に一緒に時間を共有したい。」そういう思いで、取材していたと、この対談で打ち明けあった、とも書かれている。

 そういう事情を裏に秘めながら、この本は、普通に、京都の各所を散策している。歌人の選択する現代の歌枕は、意外性があって、面白い。

 縁あって、京都の街に慣れ親しむ私も、さながらともに歩くかのように、元歌の時代と、今とを、二人の歌人とともに往来する。元歌の作者と土地との繋がり、歌の由来であったり、コラムの筆者の思い出や縁であったり、地名にまつわる話や、土地そのものの歴史や風物、コラムの中身の行きどころは一定しておらず、それが、かえっておもしろい。結びとしての永田和宏河野裕子の歌がとても印象深く、歌枕を私の脳裏に焼き付ける。

例えば、最初の土地は、

珠数屋町

 ーー京都市下京区

     河野裕子

 

しら珠の珠数屋町とはいづかたぞ中京こえて人に問はまし

  山川登美子

 

 文章は、山川登美子の概略の紹介、京都逗留の事情などに言及し、歌を解説する。

「『しら珠』とは、真珠のことであるが、この歌ではむしろ枕詞のような不思議な美しさと調べの良さとして働いていて、絶妙な言葉選びだと思う。『珠数屋町』『中京』といういかにも京都らしいしっとりとした音感が醸し出すこの歌の風情。『人に問はまし』は誰かに聞いてみようかしら、という心のたゆたいが慎ましくも華やいだ気分をうまく引き出している。登美子の代表作の一首といっていい歌だと思う。」

 そして珠数屋町、実際に歩いて書いた文章である。それがわかる。

 珠数屋町は、昭和40年9世帯45人とささやかで狭い町になっても、町名が残っている。京都ならではのことと記す。

 「登美子はなぜ珠数屋町まで行ったのだろう」

 河野裕子が、登美子の結核罹患と短命をいい、数珠を買いに行ったのだろうか、と推測する。

(このとき、河野さんは乳がん再発をすでに知っていたかどうかは定かではないが、この後の経過を思うと、読者としては切なく、悲しい。)

 

 登美子の歌は残り、生家は山川登美子記念館になり、記念短歌大会も開催されていると、結んでいる。

 

珠数屋町じゆずやまちとぞ超えにきゆくここち 

     河野裕子

 

 このように軽快だが丁寧な文章で、二人で50回、つまり50か所京都・滋賀の歌に詠まれた場所を探訪している。

 回してくれた本なので、いずれ返すか、他に回してあげるのが筋なのだが、できるだけそばに置いておきたい本である。