(2023)ハイブンの会

(2023)ハイブンの会

        2024/02/25

        十河 智

 

2023-01

 

課 題 「暖房」一切(どこかに自句を入れること)

 

文章量

=200字~1000字程度 

 

暖房

 「暖房」という言葉を家庭で普通に使い始めたのは、やはりエアコンが普及した最近のことではないかと思う。それまでは、売り場などに「暖房器具」と表示はあっただろうが、こたつとかヒーターとか個個の器具名で言い合っていたと思う。

 まだ実家にいた娘の頃は、こたつから、足元ヒーターの前から、離れ難く、母が掃除のときに、よく邪魔だからと強制的に移動させられた。

 家では店の間に練炭火鉢が置かれていた。居間には、テレビが来て、やぐら式電気炬燵が置かれるようになった。家族がなんとなく、この二つの暖房器具のまわりに集まり、餅を焼き、トランプをし、団欒の場であった。私が小学校高学年から大学生くらいまで約10年間は、こうだった。夏の庭から店の間を開け放ちレースのカーテンで間仕切るのとは大違い、家族が密で、寄り添っている、そんな冬の暖かさを今も思い出す。

 壁掛けタイプのクーラーが出てきたがまだ冷暖両用ではなく、暖房器具は別に用意して、ガスや石油の、ストーブ、ファンヒーターがどこの家庭にもあった、この頃から、ホットカーペットも出てきた。部屋全体を温める方式に変わり、家族が個個に過ごすように変化したように思える。

 また、その頃から、私の生活は、実家を出ての、下宿、ひとり暮らしの借家住まいと変わっていった。6畳一間、それから、二間と台所のアパート、どちらもやぐら電気炬燵が役に立った。ストーブなど火を焚くものは、火事が心配で、使えなかった。電気炬燵を据えて、食事、読書、書物、そこでなんでもやった。友人が来て、話し込み、足を突っ込んだまま雑魚寝もあった。家具といえば小さいタンスとこの櫓炬燵のみであった。もう半世紀以上も前の四国の片田舎での青春時代が懐かしい。若くて、少し貧しくて、工夫と元気がそれを補って、楽しく、わいわいと燥いで温めあっていた、あの狭いアパートはいつも暖かかった。

 その後五十年、結婚後は今の家にずっと暮らしている。木造だが平屋で、気密性も高く、部屋も小さく別れていて、暖房に関しては、切替や遮断が効くので、効率と経済性が良いと思っている。櫓炬燵はかなり前にやめた。暖冬の影響もあろうか、邪魔で、必要も感じず、倉庫の隅でホコリを被ったままである。各部屋のエアコンと台所で石油ストーブを少し使う。今年はストーブをまだ出していない。主人はホットカーペットの上で、寝っ転がってテレビを見ている。私は台所のエアコンの温風を浴びながら、こうしてスマホで原稿を書く。今のところこれで間に合っている。

 

 

練炭にごろごろ豆を転がして

トランプもケーキも櫓炬燵かな

独居の櫓炬燵の使い良き 

六畳に十人寄りて冬温し

寝てテレビ幸せホットカーペット

台所作家も主婦の夢冬陽

 

 

2023-03

 

課 題  「粉」一切(どこかに自句を入れること)

 

「粉薬」

 私の職業は薬剤師である。患者さんにお渡しする薬の説明をし、服用上の問題を、大きくならないうちに見つけ、適切な対策を取ることも、重要な仕事になっている。

 しかし、その昔は、薬匙を持ち、粉を計り、乳鉢と乳棒で混合し、薬包紙上に均一に分割すること、錠剤を数えて渡すこと、そんなことが、主な仕事と思われていた。

 そんな時代にも薬剤師として、渡す薬の詳細や飲み合わせの適不適について、疑義があれば問い合わせをしていたのだが、今ほど患者さんとお話しすることはなかったように思う。薬局内で、問題が起これば、医師との間で、静かに解決し、遅れたことをお詫びする。問題を表に出さない姿勢が勝っていた。

 私が薬剤師になる前後の数年間に大きな薬害や化学物質による公害が重なって発生し、世の中も、業界も、解決を探る苦しい時期があった。これにはまだひよこだったが、私達も、色色考えさせられた。様様な研修会、勉強会に参加して患者さんとの対応について知見を広めた。そして、お渡しするときの対話が、普通で、必要と考えられる時代となって行った。

 さて、実務について話をしよう。

 「粉」薬をを扱うことも多い。最近の医薬品は、錠剤が多いのだが、患者の状態によっては、散剤(粉薬)の方が、水に溶解・混合させやすく、嚥下を補助するゼリーを使う時に良い場合もあり、小児用や、嚥下困難な患者には、粉薬がよく使われる。ただ粉薬も進歩していて、口に入れても苦味を感じないようにしたり、口当たり良くすぐに溶けていくように、加工されている。厳密に言うと、本来の粉ではなく、細粒と呼ばれる、ごく微細の顆粒製剤であることが多い。これになると、飛び散らず、とても扱いやすくなるので、調剤は助かる。

 「粉」を扱うとき、大事なのが、秤量である。そして分包である。分包とは、大きく計って秤量誤差を少なくし、また熟練による手際の良さで、作業を効率よく進める手技である。調剤には、昔の名残で前後10 %(±5%)位のばらつきは許容される。昔は本来の左右の釣り合いを見て量る天秤を使っていたのでそうなるのだが、今の薬局では精度が良い電子天秤が使われるので、そんな大きくばらつくことは、もう有り得ない。

 また薬局には開局に必携の道具や書物が指定されていて、電子天びんもそこに入る。今うちの台所には、昔経営していた薬局の備品であった電子天秤がでんと居座っている。ケーキを作るとき、パック野菜の量目検査用に重宝して使っている。精度を要求されず気楽に数値を示して、秤もゆったり気分で余生を送っている。電子天秤とともに過ごす老後とも言える。

 

クーラーの微風に秤揺れにけり

薬包紙まずは捌きぬ凍える手

許される秤量の誤差陽炎へる

大夕焼薬袋に陽が及ぶ

検定を受けぬ錘や春キャベツ

冷えにけり秤も古び我も老い

 

2023-05

 

課 題 「角」

 

「四つ角」

 町の中心となる場所、幹線道路と行政などの主要な施設が集中していたり、バス停があったりする、そんな四つ角、本当の地名で呼ぶ人は少なく、「四つ角」で地域の人には通る。そんな四つ角を知っている。おそらく日本中至るところにそんな四つ角はあるに違いない。

 私の「四つ角」と呼んだ場所は、香川県高松市香西本町にあった。高松から坂出に抜ける街道と香西港と神社をつなぐ参道の交差点、四つ角である。祖父母とが母方の兄弟たちが住む土地で、四つ角のあたりに祖母の経営する書店があった。四つ角を港の方に一筋入った細道を大通りと並行に進むと祖父母の居宅と叔父の米屋が並んでいた。そして海が近く潮の香りのする居宅からは、夏には水着のまま、海水浴場に歩いて通ったものだ。泳げなかったが、海へはよく行った。浜辺で沖を見ているだけで、気持ちよかった。

 祖母の本屋は私の宝箱だった。バスに乗って、よく通って、売り物だから汚すなと叱られながら、良悪どんな本も読んでいた。田舎のその校区に一つの本屋で、教科書も扱っていた。本を買ってというと、香西へ行けと言われたものだった。さすがに中学生くらいから、自分で小説なんかを文庫本で読み始めたが、あまり家には本がなかった。

 香西の四つ角に話を戻そう。四つ角には、和菓子屋、うどん屋もあって、どちらもよく行った。特にうどん屋は、祖母の家でのお昼には決まってそこでうどんといなり寿司を食べていた。商売人の家のお昼は店屋物と決まっていた様な気がする。

 まだ10歳前後の幼い頃の思い出であるが、「角」の題を頂いて、即思い至ったのが、この「四つ角」、もう半世紀近く思い出すこともなかったのだが、鮮明に浮かび上がってきたのだ。今は名前も知らない従兄弟たちの孫子が、その辺りを受け継いで暮らしているのだろう。

 街道も四つ角も今も変わらずあるだろうが、町並みはどう変わっているのだろうか。機会があれば聞いてみたいが、可能性はあまりない。歳を取りすぎた。

   

バスを待つ和菓子屋の前桜餅

 

 

2023-07

 

課 題 「雨」

 

「雨が降ります、雨が降る」

 今頃、梅雨の頃になると、この歌が、口を衝いて出てきて、よく歌っている。幼い頃の自分に、重ねるのだ。

 昔は、外へ追い出されることが友達との遊びの始まりだった。「ともちゃん、遊ぼ。」と言って、誘いに来る。うちは店だったので、通路を突き抜けて居住スペースまで押しかけて来る。

 雨が降れば、「傘がない」と言うことはなかったが、傘を差しては遊べないし、人の家に上がり込んで遊ぶというのは商家ではあまりさせてくれなかった。大きくなって、学校の友達のサラリーマンの家に行って、お茶とお菓子に驚いたことがある。誕生日の祝に友達を呼ぶときのようだった。

 雨が降る日は、家で人形で遊ぶか、弟とプロレスごっこ(喧嘩)するしかないのだ。駄駄を捏ね倒してやっと買ってもらえたミルク飲み人形を、風呂に入れたり、着せ替えをしながら、退屈でつまらない一日を過ごした。まだテレビはうちに来ていない、古き良き昭和である。東京オリンピックをみるとき、今の上皇様の結婚式の時、テレビを買う人が、多かった。うちも皇太子の結婚パレードを見たいといってテレビを買ったと思う。

 テレビの初期はそれほど俗悪番組もなく、テレビ漬けでもあまり叱られなかった。テレビの方が放送休止に入ってしまうのだから。

 今は、ながら族はテレビを付けっ放しである。現にこうしてスマホを打ち込みながら、テレビの音声を聞き、たまにちらと画面を見る。天気予報をしている。

 

梅雨時を遊ぶミルク飲み人形と

梅雨曇雨が降ります雨が降る

テレビ無き昭和もありきみかん水

台風2号進路予想の矢の行方

どこまでもながら族なりアイスティー 

 

 

2023−09

 

課 題 「運動会」

 

大人の運動会

 運動は苦手、徒競走はいつもビリ、逆上がり、竹上りは、クラスで一人だけできなかった。だから運動会は、できないことがあからさまになる機会で、特に面白くなかった。

 そんな自分のことをさておいて、競技でかっこよく優勝する男の子は、人気者になれたし、クラス対抗も盛り上がった。親もお弁当を持って、出番に合わせてやってきた。こういう、運動会に付き物の高揚感は、若かったあの頃の嬉しかった思い出である。

 私は、その様に落ち込むくらい運動はダメだったが、娘はそうでもなかった。親として、見に行く運動会は楽しかった。ただ娘の時代には家庭の事情などで親が見に来られない子を鑑みて、運動場でわいわい家族ごとのお弁当というのは、もうしなくなっていた。そうなると親は自分の子の出番だけしか見に行かない。なにか閑散としたただの授業参観であった。

 

弁当へビリの子戻る運動会 

 

 休日として体育の日が制定された頃には、大人の運動会が地区ごとに催されたりもした。だがそれも、昔ながらの盆踊り大会には負けて、今はもうやらない。

 この地域では、河内音頭には、かけっこも綱引きも敵わない。地域の結束は盆踊りでなされる。

 コロナ禍で、ほぼすべての人の集まる行事がなくなっていたが、今年から復活の兆しがある。河内音頭江州音頭が鳴り響き、手拍子、足拍子が軽やかである。私も、盆踊りの輪に入って踊るのは好きだ。

 ふるさと高松の「一合撒いた」、就職した鳴門では「阿波踊り」、今は北河内で「江州音頭」と「河内音頭」。どこにでも、自由に参加できる連があった。

 今の家の近くに池端の空き地があり、盆踊りの会場になる。やっているときはマイクの音量がうるさいと会場に近い我が家では文句たらたらであったが、中止の間、夏がただ暑いだけだった。盆踊り復活、騒音の再来、大いに発散してもらおう。あの雰囲気が今は待ち遠しい。まあこれも日頃運動不足のいい大人の運動会なのかも知れない。

 

盆踊り池の畔に建つ櫓

 

 

 

2023−11

 

課 題 「恋」

 

「恋」

 恋をしたことがあった。大学一年生、片思いがすれ違い、実らなかった。後に、相手も好意を寄せていたと知った。青春のほんの一コマ。

 私はあまり競争心のない子供であった。中学校の成績順が張り出されている時代であった。私がその上下変動で、舞い上がったり落ち込んだり,そういうことはなかった。しかし成績重視で育った男子生徒が、勉強法を聞いてくるなど、ぎこちない接触があった。そんな雰囲気のところに恋心が芽生えるはずがない。楽しそうに恋を遊び、青春しているカップルもいたが、私は、別世界然と眺めているだけだった。

 

夏休み開けて張り出す成績順位

 

 中学、高校時代を、恋とは無縁に暮し、ESSのクラブ活動の中の英語劇に熱中した。学校の十一月の文化祭が本番だった。五月頃から、脚本を決める。シェイクスピアもあれば、アメリカのハーレクインロマンスからもとった。自分たちの力量に応じた易しい英語に置き換えて脚色し、練習し、演じた。

 演じる主役の生徒同士が恋に落ちることもよくあるパターンであったが、私の役は、だいたいお母さん。恋の手助け役。もしくは、恋の引き離し役。実際の恋に繋がりようがない役どころだった。

 

文化祭母親役を充てがはれ

 

 大学でも、やはりクラブは、ESS。下宿や自宅に集まって、ホームミーティングと称し、英語のみという茶話会をやったものだが、そこで冒頭に書いた恋、片思いを経験した。

 その会から何組かカップルができたのだが、私は同学年の痩せてひょろ長い彼に、告白することができなかった。グループとして活動し、二人きりになることはなかった。そのまま進展することなく、卒業を迎えた。三月、駅まで見送りに来た彼と、握手をして別れた。その後も、忘れられず、近づけなかった。最近、彼が同窓会に来ないので、心配していたところ、奥さんから、認知症との連絡があった。それを聞いて、気持ちが少し沈んだ。

 

初恋の人との別れ卒業す

 

 結婚の前に、揺らぎは二回あった。

 一つは就職した徳島の保守的な土地柄で、旧家では、家同士の釣り合いを言い、よそ者は受け入れてもらえなかった。家柄というのは、難しい。

 

行楽も恋も流れて春の雨

 

 実家でも、同じように家のことを言うのには驚いた。同じ町の商売人同士、釣り合いは、取れているだろう、親同士も間接的に知り合いがいたり、家のことが

問題になることはない。それでも、見合いの際に、交わした「釣り書」、根は深い。

 

ゴールデンウィーク見合のちデート

 

 結婚後の恋愛と、よくお見合いでは言

われるが、それは違う気がする。恋愛は冒険的であってほしい。崖から落ちるかもしれない緊張感があってほしい。見合いのあとは静かすぎる。

 もう結婚を決めようかと思っていると

き、母の後押しもあって、一度気に掛かる先輩に会いに、京都まで出向いた。事情を伝えて会ったのに、「止めろ。」とは言わなかった。彼にも実家の方で既に結婚相手が決まっていたらしい。

 決心がついて、見合いの相手、主人と結婚した。

 

決心と訣別の旅朧中