何をして暮らしているのだろう。
75歳。
2022/04/26
十河 智
1
生業としての仕事は遠に引退した。ただ薬剤師の資格で、受ける公益的部分の仕事は、募られることがあれば、応じている。
学校薬剤師はかれこれ30年、10年前に担当3校が2校になったが、今年度で定年ということで辞めるまで続けてきた。この仕事があるので、薬剤師会からも退かず、会員のままであった。またそれで、この2年間にコロナワクチン接種会場での出務を要請されることとなる。結構社会と繋がって暮らしているなとは思う。
ワクチン会場での薬剤師の仕事の分担部分は、地域によって色色で、寝屋川市では、医師の問診をスムーズに行えるように、問診票の記入事項の詳細を確認して、記入漏れを防ぐことをしている。地域によっては、ワクチンの希釈など調整を引き受けているところもあると聞く。
コロナワクチン接種もすでに3回目、しかし問診は受けた回数を記す欄はあるが、前2回の副反応を具体的に聞く欄がなく、下の方にある、一般的な「今までの予防接種で具合が悪くなったことがあるか。」という設問で、かろうじて、答える場合もあるのだが、大体が、コロナワクチン接種を一連のものと考えていて、「前2回」は、「今まで」に入れず、従って、ここに前2回の副反応を書く人はほとんどいない。そんなことで、そこのところをよく聞くようにしていた。
ファイザー、モデルナを問わず2回めの発熱が案外多いなという印象である。ただ、ひどく熱が出た人でも、遅くとも3日くらいで熱は引く様で、解熱剤を使わなかったという人も割と多かった。熱の原因がワクチンの抗体形成の通り道であり、一過性という認識があったためだろう。ワクチンの効果に期待は大きいようで、コロナにかかっても軽くて済むならと、前のときの副反応発現を理由にワクチン接種をやめる人は少ないようだ。
(ただこの結論はデータ的には不正確。結果的に2回め、3回めを受けに来ている人たちだけのデータであるため)
問診で聞き取ったことは、些細なことであっても、問診票に書き足して、記録するようにしていた。
私もすべてファイザーで3回接種を終えている。重篤と言える副反応はなんにも起こらなかったが、直後の腕のだるさ、痛さがあった。そして、もうかなり経つのだが、注射部位が特定できるような違和感が残っている。有り様を正確に表現しにくいが、注射の痛みと凝りが微かに続いているのだ。
長年勤めてきた学校薬剤師も、75歳を定年と、寝屋川市薬剤師会で決めているので、この3月で退任する。後の人とも挨拶が終わっており、もう荷を下ろしている。
来年からは薬剤師会はOB会員である。
とは言っても、まだ1年間は、出務の度に、業務内容の説明と指導に出向くことになっている。学校内の案内とか検体採取位置とか、一般的な手順書に書かれない細部はやはりこういう引き継ぎが必要になる。特に今回後を引き受けてくれる人は、薬剤師教育が検査分析中心だった私達の時代から、医薬品の薬学的専門知識習得中心へシフトした世代の人たちで、あまり分析そのものにも機器にも慣れていないという。まあ一度やれば、あとはすぐに身につく簡単な操作ばかりではあるのだが。測定自体は単なる出発点で、結果の分析と報告、それによって改善に向かって対処されるかのほうが、重要ではある。こういう法律で定められた年一回の外部検査というのは、ともすれば、書類があります、やってます、を積み重ねるだけのものに陥りやすい。
「担当の先生とよくお話して、検査の結果が生かされるように報告書も整えてくださいね。」
こう言って引き継ぎを終えたい。
思えば、はるか昔、まだ50代に辿り着くか着かない頃、薬剤師会の理事をしていた。議題に学校薬剤師の定年制が上がった。当時、今の私くらいの方は飛び抜けてのご高齢で、少少業務に至障を来す様子が出てきておられたのだが、身を引くとは仰ることがなかった。そういう事情からの定年制の制定である。
そこで一旦線が引かれ、お元気で仕事をこなされていた同年代の方もその頃続けて皆引退となり、今に至っている。その後の世代ではまず私が引退となる。これから何年かで、また新旧世代交代が進む。学校薬剤師はだいたい任期が長いので、こういう繰り返しになる。
コロナ禍でなければ、色色と薬剤師会も教育委員会もセレモニーをやって花道を設けてくれただろうが、今は、ただ日付が変わり、年度が変わり、ファックスで、名簿が送られるだけである。少し寂しいが、まあ仕方ない。こういうめぐり合わせである。
昨日のコロナワクチン接種会場の出務の時、昔の10歳くらい年下だった同僚の娘に会った。私は結婚前に4年ほど企業に勤め、結婚後職場を変わり、子供が生まれてから保育所探しに失敗して退職。子供が幼稚園に行くようになったとき、パートという形で薬剤師として働き始めた。オーナーが妊娠を知り開局、子育て中の3人が、ローテーションを組んだ形の薬局であった。その同僚が、彼女の母で、彼女は生まれたての頃であった。その後、その薬局は諸事情で閉じたので、それ以後会ったことはなかった。姓が変わっていないので、未婚かと思いきや、離婚したようであった。みっちり話す場所でもなく、突っ込んで聞きはしなかった。こういうこともたまにあるから、人生は面白い。三時間の出務が終り別れるときにお母さんに宜しくと託けた。
旧友に似たる娘やクロッカス
堅香子や離婚せし事詳しくは
涅槃西風よぼよぼだがと託けぬ 十河 智
2
俳句は、40歳くらいから始めた。
それまでも、ノートに書き留めた文章もあり、折折の文集には求められれば書いていた。グループで旅をすれば、必ず思い出に旅行記を書いてメンバーに送っていた。それに俳句を付けたり短歌を添えたりもあったと思う。
大病を患い、その後自営で薬局を営んだ時代、だんだんに俳句に傾いてきた。療養中の物憂さの中にも、仕事で忙しくしている合間にも、ふと思い浮かぶフレーズ、呟きが、そのまま俳句になった。私の俳句はそういうものであった。「あなたにとって俳句とは?」、と問わればいつもこう答える。「俳句は私には自己表現の一部で、そのまま受け取ってもらいたいだけ。その時の本音。」
元元、読者を想定していない、自分を曝け出す手立てに過ぎない。呟きに形を与えること、そういう俳句を作ること、振り返ることが好き。自分のありとあらゆる感情、五感、喜怒哀楽が、記録されるのだ。後で読み返せば、すぐにその時点へタイムスリップできる。自分だけの俳句で良いのだ。
思い出話を書くようなときに、過去に遡った体験の中に身を置いて、俳句を作ることもできるようになった。これが後で句会や投稿などの題詠の際の手順に似ていて、今も題詠は、自分の記憶の中の風景に、身を置く形で、出てくるものを作品にする。
今は、読むものといえば、雑誌もハードカバーも俳句関連のものばかりである。文字の詰まっているものでも俳句の評論か、俳人のエッセイ。新しい知識はこの歳になると、「本を読んで」が億劫になり、人に聞いたり、スマホやパソコンで検索する。こういう情報の取り入れ方は、細切れで、追いつけていないと感じているのだが、もういいか、とも思う。もう歳なのだから、おばあちゃん然としていたらいいとも思うのだ。
俳句誌を購読し、俳句に浸り始めてから、結社の大会とか句会とかにも参加してみた。馴染めなかった。大体が私は初めから教えて貰う俳句ではなかったし、他人がこれほどいろいろ自分の表現に文句をつける、というのに馴れるのは時間がかかった。「嫌ならスルーしてください。」そう心では思いつつ、人に採られることもなく、また、他人と違う変わった句を選句しながらの30年、でも俳句の方が私を気に入ってくれた感覚でこれまで作り続け、止めようと思ったことはなかった。
今はそれなりに句会も楽しめるようになった。俳句が自然になり、同席する人たちがよく見えるようになったのだと思う。最初、俳句を選句するとか、上手、下手があるとかに、違和感があった。小説を読むのと同じように、表現されたものとして句集を読む。心に響いてくる、うまく言葉を使って表現の極致に達している、そんなふうに考えての上手下手はあるかなとは思っている。でも句会とかでやる選句をその基準で選ぼうとすると俳句はかなり重さが足りない。軽い、今更ながら、そんなことに気付いたりする。俳句には俳句の尺に合う選び方をしなければと、近頃やっと思えるようになった。選句が負担にならなくなった。作ることと同じ、その時の気分なのだ。同じ句が出る句会を2回したとして、結果が同じとは限らないのだとおもった。
ただ句会の方式の公明正大さには、初めての時から、ほんとに感心しきりである。これは誰が最初にやり始めたのだろう。芭蕉もやっていたのだろうか。最も、メンバーが馴染みで長くなってくると、誰の句かわかったりするものではあるのだが。
俳句の総合誌を読み物として取っていて、投句はがきがあるので、毎月できた俳句を書いて出している。ほんとにたまに、佳作や入選すると、前言にも関わらず、それはそれで、嬉しいものだ。期待していないので、余計に活字になった句と俳号が、輝いて見える。
あろうことか、今月号(2022年4月号)俳句界、中村正幸選で、
落ち葉踏む一歩の深く沈みけり
十河 智
が特選になっていた。この句は、加古宗也選でも佳作に採って貰っていた。特選なんて貰ったことがなかった。やはり嬉しい。何度も見直している。表紙に特選と書いて、本棚に置いておく、永久保存版として。
3
夫が始めたゲーム。私は数字のゲームよりも、クロスワードや漢字などの言葉遊び、なぞなぞや間違い探しのほうが好きだったのだが、つい手を出したために嵌まってしまった。
毎日新聞に毎日ある問題を予め用意した九九マスに書き写して、やるようになった。日曜日にはクロスワードや、ナンプレのお遊び欄があるので、二人でナンプレに挑戦する。クロスワードはものの10分でできるが、夫と競争のナンプレは一日持っていたりする。もちろん夫は10分、20分コースなのに。
夫は私用に消えないボールペンで問題を写した後、そのままボールペンを使って、新聞に解いていく。私は消しゴム必須なので、鉛筆を使う。マスを書く紙も何度も使う消しゴムに耐える丈夫なカレンダーや広告の裏に書いている。
暇つぶし、というよりも、暇な日常の一仕事という感覚である。
ナンプレにどつぷり浸かる春一日
春障子九九の枡目をまず以て
一二三四五六七八九幾度唱ふや初桜 十河 智
4
ドライブとお茶、そして、お買い物
国道170号線、私達のドライブ道路である。大体が寝屋川の家を出て、南下、その時の気分によりコースは決まる。
昨日は富田林市の蘭館という喫茶店まで30kmを往復した。ここは明るく広い居心地のいい店なので、案外よく行く。
生駒山系をほぼ真横に季節の移り変わりを楽しみながらのドライブ。助手席で俳句を考えるのがいい。吟行と言うには場面が早く走り去るのが困るが、ほぼ毎日の景色の変化が、身に沁みて、句を作らせてくれるものだ。
途中に、コメダ珈琲や、昼食のために寄れる、うどん屋レストランもいくつか決まったところがあり、気分転換にもいいので、一日1回は、外に出るようにしている。それでも注文するときくらいの会話で、2人の間でもことさらのおしゃべりもなく、新聞を切り抜いたゲームやスマホの点検、店の週刊誌、そんなこんなで小一時間を過ごす。
コロナ以前は3回に1回くらいは逆方向、高槻、京都方面へも出かけていたが、この自粛ムードで、人のいない方へ傾いてしまったのだ。
早いときは10時頃出て昼食、その後道を曲がって、その時の見もの、話題の名蹟などへいったりもするが、山を分け入り、川沿いを通り、ただドライブだけという日もある。
最近は、昼食を家で済ませてから、1時頃から出る近場が多い。コロナで窮屈、なるべく手際よく買い物も済ませる。したがって、探してまで行っていた道の駅とかはあまり行かなくなった。距離はあるが、寝屋川から無くなって久しいスーパーオークワを最近やっと大東で偶然再発見した。オークワ寝屋川店は気に入っていたのに、案外短期に撤退して残念に思っていたので、嬉しかった。オークワのない昔も、再度見つけるまでの間もスーパーマーケットはラッキーであった。ラッキーも悪くはないのだが、好みで言うとオークワが勝つ。
まずパンが美味しい。お惣菜も、味が私の作るものに近く、買ってきた罪悪感からも、ちょっと開放される。老人2人と何回も書くが、あまり多くを作りすぎないために、副菜で一品増やすなどは、出来合いのものを買う機会が増えた。やはり多様なバランス良い食事を心がけたいのだが、面倒というよりも、作り過ぎて、何日も食べ続ける事態が困るのだ。
野菜なども、若いときには2、3日で使い切った一盛が、1週間かかることもある。そんなことと、コロナ禍の億劫な気持ちも重なって、買い物のスパンは長くなっている。
まだ2人共運転できるので、この暮らし方は、今のところ、うまくいっているのである。が、77歳、75歳。明日何かが起きるやも知れず、崩れやすい生活基盤に、かなりの怖れをいつも抱いて暮らしている。老いるということは、仕方ないこととは言え、
去年思わなかったことを今年は心配している、とか、
去年まですごく自然にできていたことが、面倒な気がして引っかかる、とか、
自他ともに記憶力が抜群と信じていたのに、最近は、頓に低下していることを自分も気づき、夫にも言われるようになった。
整理しなければと、ものはだいぶ捨てた。しかし、日日の暮らし方は、漫然と切り替わることなく続けている。娘は遠くに暮らしている。主人は、自分の城を離れるつもりはないらしい。娘の近くで暮らそうかと、ちょっと本気で言ってみても、笑い飛ばして、ここで死ぬという。築きあげてきたものへの思い入れが大きいようだ。
今年も自治会の代議員が回ってきた。これも私達の歳になるときつい。住宅街の管理作業に駆り出される。清掃、防犯の見回り、寄付などの集金。
主人が80歳になるまでに、終の棲家をなんとかしなければ。
昨日はて今日の桜花を思へしや
住宅の塀より桜一枝かな
公園に道に沿ひては桜さくら
遠桜生駒山系果てるまで
春の田の狭ばまばかり駐車場
どこよりの桜吹雪か古墳超え
逃げ水や追へど最期に行き着かず
土筆摘む終の棲家に庭要らぬ
十河 智
5
一週間に一度の掃除、一年に一度のお花見。
〈一週間に一度のお掃除〉
掃除は、最近手を抜くようになった。掃除機をかけ、濡れワイパーを走らせる。雑巾も紙の使い捨てのものを使う。
掃除機は2台ある。とても重いが、とても性能の良い掃除機が、一週間に一度の本格掃除に出動、もう1台の簡単に軽く掃除するときのが、合間にちょこちょこと唸る。
これは我が家で、二代目の掃除機に買い換える際、意図してそのように使おうと、この2台同時に買ったものだ。もう十年も前のことだ。
あまり使わない部屋は、パス、思い出した様に気分で掃除機を入れる。
掃除機の性能の良さは集塵の機能でわかる。高性能掃除機を使うと、家の家に埃がこんなにと、毎回それは驚く。そして、次に使うときのために、必ず集塵装置の中のゴミはきれいに取り除いておく。それもあって、本格掃除には半日掛掛かる。
最近、起きたら体の節々がだる痛いことがあった。前の日の掃除がたぶん原因だと思う。
清明やざざぁあと掃除しなくては
ワイパーでさらさら拭ふ春埃
掃除機の春塵吸へるじじじじぃと
暖かしこきこき掃除して痛し 十河 智
〈一年に一度のお花見〉
今年も奈良の佐保川へお花見に行った。川沿いにある和食の「さと」で食事して、少し駐車場を借りて、花を橋の上から眺める。食事後、川に沿って歩いたりもする。
あまり人が多くいたということはない。花見時には、堤に俳句を書いたぼんぼりが並ぶ。それを読むのも楽しい。
佐保川は、それほど川幅がなく、橋に立てば、視界にかなり奥行きが見えて、桜の木の重なりと散った花びらの浮く川の流れが、美しくゆったりと時を過ごせる。ほんのひとときではあるが、桜を満喫できて、どこの花見よりも好きな場所である。
行きは運転していった。最近はこういうケースが多くなった。私も運転に馴れは必要だし、仕事で運転しなくなったので、こういうときには引き受ける。
帰りは助手席。俳句を作りながら。もう桜も散り始め、強烈な紅の三葉躑躅が咲いていた。
大きな幹線道路で、何箇所か歩道橋がある。歩道橋は、大体が小学生の通学用。この日は珍しく、大人が歩道橋上に立っているのを見た。府立公園の桜吹雪を眺める人らしかった。桜は人を呼び、見どころを探させる。
佐保川の桜今年も和食「さと」
からうじて残る桜に間に合へり
行く人ののんびり春の服揺るる
ぼんぼりの俳句読みゆく花の川
佐保川に沿ひてまともに花吹雪
古刹門枝垂れ桜の今見頃
花は葉に移り行く様阪奈道
紅鮮烈三葉躑躅の時折に
散る桜人珍しき歩道橋 十河 智
6
NHKで録画して、毎週「短歌」「俳句」を見ています。短歌も、ふと作ってみたくなりました。
短歌と俳句
①
コロナ禍を家に籠もりてただテレビ三年(みととせ)過ごし大いに老いぬ 十河 智
老い三年(みとせ)花の賑ひ触れぬまま 十河 智
②
桜まだ出掛けてまでは観てをらぬ街路に桜咲き誇りける 十河 智
花盛り公園囲む並木かな 十河 智
③「友達」
今生きてゐるだらふかと友思ふコロナ禍会はず喜寿となるなり 十河 智
喜寿の春コロナ下友の生死ふと 十河 智
④「弁当」
今はもう中学校も給食らしき思い出しゐるキャラ弁自作 十河 智
一年生自作キャラ弁見せゐたる 十河 智
⑤
公務全て引きどきとなり引き継ぐ日足元不如意と白髪の顕は 十河 智
新年度公務引き継ぐ白髪かな 十河 智
7
藤の花
うちは住宅街の端っこの敷地の半分は池にむかう矩地である。池は、昔からの田水を貯める用水池で、今は寝屋川も村から町、市となって、田んぼが無くなり、ほぼ用水としての役目は終わっている。子供の事故防止のために金網柵で、道路側一面が厳重に閉じられ、その他の三方を、私達の住宅街のある丘と、大杜御祖神社(おおもりみおやじんじゃ、この神様は村の鎮守の高宮神社の親に当たると言われている)の杜、高宮の地元の人達の畑地に囲まれて、ひっそりと、水を湛えている。用水の利用があるときは、一年に一度「田水引く」が行われ、池が干されていたのだが、今はそんなこともない。
周りの竹藪も、筍掘りがあったり、とんどや盆踊りのために伐ることもあり、人が入って手入れができていた時期があった。今は都市化が進み、大字高宮は、高宮1丁目、2丁目、高宮新町、高宮あさひ丘と、住居表示が細かく分かれて指定され、村の組織は、多分解体状態に陥ったと思われる。盆踊りもとんどもやらなくなり、近所の治水緑地でやる寝屋川まつりに合流していった。
そんなわけで、裏の竹藪は、伸び放題。自治会を通じて、管理する隣の自治会に何年かに一度手入れをお願いしないと、うちの敷地に倒れ込んでくる。あるときは地下茎が筍を出して、慌てたこともある。少々厄介者の竹ではある。
ただ今の時期は嬉しい。竹に藤が絡まり、きれいに自然の藤棚を作るのだ。大体が連休頃が見頃で、若い頃は、そのとき家を開けることが多く、気づいていなかった。毎年、あっと咲いていることに気が付き、小躍りして、楽しむようになったのは、子育てを終わり、休みに出歩かず、平日に遊ぶようになったここ二十年くらいである。
毎年のことなのに、予定して待ったりしたことはなく、いつも突然、車を降りた車庫でとか、障子やカーテンを開けた朝とかに、池の向こう岸の竹の合間に、幽かに揺れる紫色を発見するのである。それは嬉しくて、毎日が色濃く成長していく藤の確認の朝となる。せいぜい十日間くらいの楽しみである。いつの間にか色褪せていき、六月には影も形もない。桜もそうだったが、花の色は移っていくものなのだ。
そして今年も少し早めの昨日、紫の揺れるものを発見。朝の楽しみが始まった。
田水引く田の一枚も消えゆきぬ
今堀りし筍を売る里人は
竹やぶに今年の藤の幽かあり
藤咲きぬ池の辺に住む得にあらむ
われ死してこの屋朽ちても藤の花 十河 智
8
句会
今のところ、ネットのどの句会も選句ができているが、だんだんに余裕がなくなってきた。都市のせいか、ネットのせいか。
実句会にはカレンダーを見ていけば良く、重なる句会には現実行くことはない。ネットだと興味からつい参加して、投句も簡単にやってしまうので、少しセーブしなければと思うようになった。
俳句は日常の思考の開示のようなものだから、エッセイや俳文としてその一部に飾るもののある。そんな俳句は、なんというか、独立性に乏しいので、あまり句会には出せない。具体的過ぎたり、きちきち過ぎたり。やはり吟行なり、脳裏にはっきりある感覚、考えを、俳句にすれば、どうなるか考えに考え抜く、つまり推敲をかさねたものが、本当にたまに良くできた句として選者、句友の目に止まる。いつもだめだと、とっくにやめていただろう俳句である。
句会という伝統的、そして座をかもし出す合理的でもあるシステムは、どんどん薄まる人の繋がりを、現代人にもマッチする絶妙な力関係をその人間関係図に組み込んで、概ね趣味という形ではあるが、人を緩く纏めている。
あまり縛り付けられると、弾けて壊れたという話によくなるのではあるが。私のように裾や袖にすがって、ただ俳句を持っていき、選をさせてもらう多くの俳句愛好者のまとめ役世話役、結社の主宰の存在は、本当にありがたい。ネットにも、実句会にもいらっしゃって、そういう方のお世話になっている。ただ老いるだけの、この退屈さがまぎれているのは、そういう句会へ参加させてもらっているおかげなのだ。
また別の楽しみは雑誌への投稿。現代俳句協会の会合で以前選者の方とお話したことがある。先も膨大で、大変な労力とのことだった。その中を選んでもらうと言うことの、これもとてもありがたいことなのだ。
こうして、俳句が人と関わらせてくれ、人を思い、日々暮らしていける。
つくづくと俳句をやっていてよかった、とおもう。
句会の成果はその時限りとして、雑誌の結果をすこし披露しておきたい。
❋
俳句界季語歳時記
2021年05月号
「新茶」
日本平展望喫茶の新茶かな 十河 智
選10句に入る。
❋
俳句界季語歳時記
4月=2021年06月号
「紫陽花」
紫陽花の寺の階また一つ 十河 智
選10句に入る
❋
俳句界季語歳時記
2022年02 月号
「風花」
風花や京都に市電ありし頃 十河 智
選10句の9句め
❋
【俳句界】
2022年4月号
(雑詠)
落葉踏む一歩の深く沈みけり 十河 智
特選 中村正幸選
佳作 加古宗也選