「漢字とアジア」 石川九楊著 を読みました。2019/04/03

「漢字とアジア」文字から文明圏の歴史を読む    石川九楊著 を読みました。
         2019/04/03
         十河智

 この著者は東アジアに広く使われている漢字を通して歴史を考えると解るというのです。
 歴史を「文体(スタイル)の積畳である」と定義したいと最初に述べています。

 今まで接してきた歴史観とは少し違うように思いました。
 私の認識は、各地に人が流れ、民族が起こり、それぞれの発展があり、交流の結果漢字を受け入れ、馴化していき、国の言葉に組み入れてきたというものでした。文字を持たない各地の国には、独自に言葉があった。漢字は、それぞれの国が、書き言葉の、道具として利用してきたと考えていました。

 ところが著者はまず各地方に中華思想により漢語・漢字文明圏が拡大していく、というのです。

「アジアの盟主は中国、ただし、この場合の中国という意味は、中華人民共和国という具体的国家を指すのではなくて、歴史的概念としての中華正確には漢語漢字文明です。その中華に照らし出されることによって、周辺の朝鮮半島や弓なりの列島・孤島(=日本)が誕生しました。その歴史の延長上に現在が繋がり、存在しています。」

 それぞれの地方に集落としての邑や国はあったが、共同体の域を出ず、そこでは施政に有効な法の発布や、徴税、記録のために、まず漢字・漢語が為政者の間にそのままの状態で使用される。中国の中央と同じ状況下で各国の政府は動くのだ。何処にいっても通じる汎用語として中国語あるいは、漢字の書が機能する。日本や韓国、ベトナム等の周辺国の文化は中国文化のバリエーションであるとも断言する。

 私は若い頃、この著者のいわゆる西洋の、言語学の本をよく読んでいました。この学問には、文字の対する観点が全く抜け落ちているというのです。日本語を音声的な比較からルーツを探るという手法です。その見方により慣れているので、漢字に焦点を当てるというのは、ほぼ初見に近いのです。
 著者は、書き言葉と書字(=文字)の要素のない西洋の言語学は、発音記号のようなアルファベットを文字として持つ西欧人には漢字の文明と文化は理解できないとまで言い切ります。『スイスのソシュール言語学では、「言葉は話し言葉と書き言葉の統合体として想定されるものではない。」「書き言葉とは話言葉を文字で定着させたものである。」と考えている』といって、これに対して、「話し言葉と書き言葉が相互に干渉しあい、お互いに影響を与えながら、その総合として言葉がある。」と、著者はいいます。「文字がある社会では、書き言葉も言語学の対象になり、話し言葉と書き言葉の統合として言葉は存在する。」と繰り返しています。その部分には、目を覚まされた感はあります。昔読んだ言語学の本には、発音記号が一杯でした。確かに。そして、漢字の知識は、それとは別物として、取り入れられていました。
 「中国語というのは漢字語のことで、中国語という言語はない。」
 「北京語であり、上海語であり、福建語であり、広東語であり、客家語であるものを、中国語と総称、漢字語としてひとつに括られる。」そう言うのです。この考え方の延長に、東アジア漢字・漢語文明圏があります。
「世界中のどの文化、文明圏にも話し言葉はありますが、東アジアの場合には、書き言葉である漢字文が生まれました。漢字・漢語です。その漢字文が政治の言葉として周辺の地にも浸透していく。それは文明の言葉でもあったのです。」
 国という体制のなりたち、文化圏という考え方は、文字の拡散を基本にすると理解がスムーズだとするのです。

 このあとで、本書は日本語を例に、ロゴス(政治の言葉)に、エロス(下々の言葉)が加わりゆく過程を説明して行きます。周辺の国それぞれに、この過程があり現在のかたちになったのですと。
 秦の始皇帝の中国統一により、文字の統一があった、これは文字による世界観の転回と社会の統一という意味を含むとしています。ここからヨーロッパとは異なる東アジアの歴史が始まったといっています。

 これまで、この本のはじめの部分を紹介してきました。

 そのあとの部分では、中国の各時代の石碑に残る書についての解説と、その書の書家、文人の政治との関わりについての著者の見解が述べられていて読み応えがありました。
 地図も豊富で、各時代の中国と東アジアの様子がよくわかります。
 話は飛ぶのですがが、私は今中国の歴史ドラマに夢中なのです。色々な時代がドラマになっていて、その時代の文物や周辺国家との関係、漢字と話し言葉の関係、それらがこの本の記述により、地図により、大まかに理解されるようになってありがたかったところも多いのです。特に匈奴とか北方民族との境界でのことが今にも通じる形で見える気がしました。
 いま、日本では、改元が行われようとしている。「令和」、この出展を万葉集梅の歌の序として、初の国書からと、言っている。テレビである言語学者がいうには、万葉集の頃は、梅を愛でるという風習も含めて、多くのものが中国から流入した時期で、この序文の元は、前漢の書物にあると判ったと。ことほど左様に、出典さえも入り組んでいて、歴史の彼方で中国の霧に霞んでいるようなのです。著者のいうことの大筋は認められるものだと思います。
 周辺国の歴史も漢字との関連で詳細に述べられています。全てを丸のみにしてはいませんが、どこかに頭に留めておきたい主張ではありました。
 言語体型の異なる文化圏、ヨーロッパとアフリカ、世界の向かうところや文字を持たない部族の行く末まで、幅広く論が展開されています。一気に読んでしまいました。読み物としては面白かったです。
 ですが、書家として名を為す著者のこの漢字一辺倒とも言うべき見方に、全て納得というものではありませんでした。私には、それほどの見識がないので、一冊を読み終わるまで、何か引っ掛かるものがいつもあった、としか言えないのですけれど、何か根底にある中華思想に抵抗感が拭えないのです。
 この本は漢字の大好きな友人が読んで面白かったと言って貸してくれました。
私が教えてもらっている書の先生は、この人の著書を三冊も読んでいることを知り、書の世界ではすごく有名な人のようです。まったく知らなかった私は、少し恥ずかしい思いをしたと付け加えて終わろうと思います。