谷原恵理子さんの句集「冬の舟」を読みました。

谷原恵理子さんの句集「冬の舟」を読みました。

        2021/05/03

        十河 智


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 実は、この句集を手にしたのは冬である。鑑賞の言葉を書きたいと思いつつ、様様のことが重なり、もう春の終り、若葉頃になってしまった。

 初めて、谷原恵理子さんの句に接したとき、目が醒めるような、個性的な俳句に出会ったと感じた。視点が確かで、一句の画面が見える、そういう俳句なのである。スケッチ帳でも繰るように、一句一句を楽しんでいった。

 

 句集の「序に代えて」の中で、岩渕喜代子氏の言葉、

「恵理子さんの作品は、確かな具象がその感覚に支えられて成立している。」

 

 跋「慈愛」の中で、辻村麻乃氏の言葉、

『恵理子さんの句にはまず基本的な写生の目があり、自身を抑えて詠む対象に同化する力が元来備わっている。

 読み進めるうちに、対象となる動植物や人物への鋭い観察眼と慈愛とを感じる。意識的に「我」を入れようとすると実感の伴わない心象句となってしまう。しかし、敢えて我を詠まなくても対象物と一体化することで十七音の中に「我」を超えた自然界、宇宙なるものが現れるのである。』

 

 お二人の言葉の教えてくれる、谷原恵理子さんの句の本質を、この鑑賞文を書くに当たり、もう一度句を読み直し、噛み締める。

 谷原恵理子さんのような句をあまり知らない。客観写生の句と言っても、発見ということを手柄にしたい、私も含めて、そういう句になりがち、辻村麻乃氏の言う、「我」が入りがちな句が多いのだが、谷原さんの句には、本当にそれがない。しっかりとした描き手がいるだけである。一句の表現するイメージが全てという世界になっている。余韻を広げる句ではないが、一句からは、谷原恵理子さんが伝えたいビームのようなものが、発信されている。

 

 絵画といえば、表紙絵は、画家である娘、谷原菜摘子さんが描かれたという。

 私が感じている谷原恵理子さんの句風に、完璧なほどにマッチしたこの表紙にも、敬意を評したい。

 

「さみしくなっても荒涼とした世になったとしても、ただ生きて雪が降る速度でゆっくりと俳句を詠んでいこう、そんな決心を「冬の舟」という題に込め、しっかりと歩を踏みつつ演じる能役者を描いた表紙絵、他の句集では感じたことのない確かな個性を感じました。こういう決意で俳句を作ると表明をされるのも、他では見たことがないように思いました。今脳裏には、龍安寺の石庭が浮かんでいます。あそこに置かれた石の一つ一つのように、この句集の中に、句が置かれているように感じています。

 また至極の句集に出会えた気がしています。

ありがとうございます。」

 これは、この本を手に入れて一読の後、谷原恵理子さんに送らせていただいたメールでの感想文である。

 

 帯にもある句、

 

能舞台一歩は雪を

踏むやうに」

 

 この句は、表紙の絵とともに、句集の代表句として記憶に残る。

 能の演目も観劇したこともあり、周りにもお能や仕舞を習う人達がいる。能舞台に上がったことのある作者であろうか。ただ能を観ているだけでも、独特の一方踏み出す所作は雪を踏むようであることに納得できる。音もなくしっかりと踏み込む、ぐっと押し込む確実な着地、雪の上を今歩いている実感がある。作者にとって、能舞台も雪を踏むことも並行する現実であろう。

 

 以下、鑑賞の言葉も添えて、好きな句を挙げたい。

 

 

 

「星するり」

 

一本の桜を母と見る夜かな

 日本人にとっての桜、ただ一本あるだけで、華やぐ。

「母と見る」の意味が現実の叙述とも、比喩とも取れて、そこが桜を大きく見せている気がした。家の近くのお母様との思い出のある桜と思う。

 

春昼のざらりと映画館の壁

 よくわかる。スクリーンのある部屋の通路。真っ暗になって、つい手を壁に。その時の手触りが、「ざらりと」、私はちょっとがっかりするかもしれない感触である。

 

星するり体を抜けるスキーの夜

 私はスキーはしない。しかし、できたらいいな、あのスピードに生の体が乗れたら、どんな感覚があるのだろうと、滑れる人が羨ましく思う。「星するり体を抜ける」これが体感できるに違いない。彼女がそういうのだから。

 

石段の青きしづくや蜥蜴跳ぶ

 瞬間を捉えて、目の中の残像をしづくと表現。それが的確で、読むものに伝わる。

 

みちのくの星押し寄せてねぶた引く

 最近はねぶたがどういうものか、遠く四国、関西で育った私も、イメージができている。映像文化の浸透の賜である。夜も明るく、地上の星となるねぶたに、空の星が、押し寄せてくるという、壮大でとてつもないスケールの舞台展開である。

 

 

 

「天使の羽根」

 

大琵琶や雪は水輪にまた水に

 しんしんと雪が降る。大きな琵琶湖が感じられる辺りに雪の行方を追っている。落ちる瞬間は硬いものとして水面に当たり水輪が広がる、そして雪の本質の水に戻っていく。当たり前のことを書いている。しかし、あの大きな琵琶湖を舞台に、雪の壮大なショーが繰り広げられている、それを観ている。

 

天使の羽ちよつと直してクリスマス

 微笑んでしまう。家族で祝うクリスマスの飾り物の天使。みんなが集まる前に気になった羽の形を直したのだ。ほんのちょっとのことだが、これで気持ちいクリスマスになるのだ。

 

シュレッダーの飲み込む文字や小鳥来る

 大量の保管期限を過ぎた書類をシュレッダーにかけている。経験あるが、引き込まれてゆく文字を見ているだけの単調な作業。窓の外に小鳥が来ればとてもいい気分転換である。

 

ばしよんふあしよんくさめ大きな月の客

 なにか童話の書き出しででもあるような、面白い場面設定である。オノマトぺの実際を出してみたくなる作者の創作した音が、月夜に響き渡る。

 

ジャングルジム色なき風の通り道

 色なき風は体に確かに感じている。どこから来るのだろうと周りを見渡す。ジャングルジム、骨組みだけのあの格子を通り抜けて私の体を擦っていくのかと思う。

 

 

 

夜想曲

 

夜想曲藤はねむたき長さまで

 藤の花は思いの外垂れ下がるものです。あのだらりさ加減、重みの作る揺れは、眠気を起こさせる。夜想曲まで重なって。

 

ぽつかりと浮巣余呉湖の白き朝 

 余呉湖の辺りは何度か行き、雰囲気がわかります。何もかも見えるところです。一周は歩いても自転車でもそれほどかかりません。山も近い。朝日とともに晴れ渡る夏の余呉湖。その明るさが、明白、白昼の白、白き朝と言わしめているのではないかと思うのです。

 

二百十日大きな虹の恐ろしき

 二百十日に当たる日の不穏な空模様。雨が上がって大きな虹が出たが、まだまだ安心ならぬ気配なのだ。単刀直入な「恐ろしき」が、突き刺さってくる句。

 

焼き立てのパンの膨らみ鳥の恋

 鳥にはあまり詳しくない。「鳥の恋」の持つ幸せ感、春の陽気を信じるのみ。焼きたてのパンの膨らみからの湯気や気持ちの高鳴りの象徴のようなまだまだ膨らんでいきそうなふっくら感。美味しそう。満ち足りている。

 

囀や十色聞きなす雨上がり

 なぜか雨が上がると囀り始める。十色を聴き分ける、私からすると超人的である。鳥もそれだけいる環境ということである。

 

檻の鷲届かぬ空を見てをりぬ 

 大空を舞う鷲ではなくて、囚われの鷲。見ている空も、真上ではなく、鳥の真っ直ぐの視線の向こうの広く大きな空。今の私達が読むと、コロナ渦中の自分の鬱積した心情が映し出されているかに思う。

 

 

 

「パリの灯」

 

黒セーターレノンの歌は雨のやう

 ジョンレノンの歌う姿、黒セーターのイメージが強い。そして「レノンの歌は雨のよう」この措辞にも強烈に共感している。レノンの濡れた雨の雫のような声が好き。このような句を読ませてもらえたことに感謝している。自分には出てこない表現に、読者となれた喜びを感じる。

 

まつすぐな道牛小屋と赤のまま

 農道を歩いているのでしょうか。昔のように家で飼わない牛。農耕用ではなく、肉や乳の生産用の牛。牛小屋もある程度おおきい。道端には赤のままが大きくなって揺れている。ここがどこかは知らないが、私も見ること、体験することのある風景である。

 

白亜紀の貝一億の秋思持つ

 白亜紀、大まかに行って1億年前の地球の年代。正直言ってこの句は正しい事を言っているわけではない。植物相も大変化した時代のようで、今と同じような秋が繰り返されていたわけではない。

 だが、詩、詩情とはこういうことなのだと、こうもすっぱり言い切られてしまうと、感じ入るしかない。一億の秋思について深く思いを寄せている私がいる。

 

蓮根の穴よりパリの灯が見えて

 面白い、いたずら心のある句。蓮根の穴、穴があれば覗きたい。一節大きい蓮根をほった直後かもしれない。外で、望遠鏡でも覗く気持ちで見るとパリも見えてくる。

 

一人子は喧嘩を知らず室の花

 子供には言えない親としての実感、かな。うちの子は喧嘩知ってて親とやったかな。

 

ハンガリー舞曲の一打天高し

 これも胸元にぐさっときた一句。落ち着いたらハンガリー舞曲が鳴り響いている。球音が高くバシッと決まり、あの音楽に乗って飛んでいく。田舎の球場だと思う。プロ野球か草野球か、どちらでもいい。球の行方だけが浮かんでいる。

 

 

 

「名将の弓」

 

この街にわたくしの位置梅香る

 今年この句を読むと、殊の外身に沁みる。コロナ禍の影響で、ありとあらゆるものを断念してきた。梅見に毎年の北野天満宮やその他の名所へは行かなかった。

 家の梅の木を改めて見直したり、ご近所の散策で、この句の心境がよくわかる。自分の家、自分の家から数歩のところのお庭で梅の香りに立ち止まる。ここがわたくしの位置であると、再確認した。

 

母思ふ日の淡くなり柿の花

 何とも言えずうまく取り合わせている。若葉の陰に隠れて、探せば分かる、そんな柿の花が、草葉の陰から見守ってくれている母とイメージで一致する。もうだいぶ日が経って、面影もだんだんに淡いものになる頃、柿の花が呼び覚ましてくれるのだ。

 

名将の弓に礼して寒稽古

 普段接する人にはいないのだが、弓を引く人にはたまに出会える。友人の娘が大学の弓道部で、三十三間堂の通し矢に参加するとか、研修会に行った公民館の一角に弓道場があったりとか。弓道する人の道具を抱えて出入りする姿は凛としていて美しい。この句の道場はかつて名将と言われた人が創始者なのだろうか。稽古の前の「弓に礼」キリッと気持ちが切り替えられる所作となっているのだろう。寒稽古の気構えが伝わる。

 

盆の家書棚に探す青年期

 この句にも読むと同時に自分の記憶としてあるものを引き出してくれた。実家には案外捨てずに残るものがあり、お盆に帰ると、こんなものがまだある、とか、懐かしいものばかり。18歳で家を出た。家を出るのは進学、就職、嫁入り(ジェンダーフリーで言えば、結婚)、だいたい、そのようなものだろう。

 例えば私の実家には、日本文学全集を専用書架付きで買ったものがまだある。まさにこの句通りで、帰るとその当時心躍らせた作家の本に手を伸ばす。「青春期」を探し出す。

 

新涼や千姫に吹く一の笛

 一の笛。はっきりとした意味はわかりませんでしたが、千姫にゆかりのある大切な曲か大切な楽器に違いありません。涼しさを感じることのできる季節、笛の音色がさらに涼しさを感じさせる。千姫の移ろいゆく一生のことが思いをさらに秋の気分へと浸らせていく。

 

ブナの木に水巡りけり星月夜

 植物を生育させるのに必要な水、水の循環の一部に私達生物を育みその内側に入り流れる水がある。ブナの大木に耳を傾けると、水を吸い上げる音を聞けるという。星のきれいな夜水はたしかにブナの木を巡っている、その枝葉から抜けてあの星の煌く天へと還っていく。

 

生きてゐる井戸きいきいと冬の寺

 人の五感が冴えているとき、「生きている」とかんじるのだ。つぶやいているのかもしれない。冬の寺に作者はなぜ滞在しているのか、わからなくても、この俳句は、井戸の滑車の擦れて出す「きいきい」という音を再現し、空気の冷たさまでわからせてくれる。

 

硬質の水巡るパリ時雨くる

 また別の「水巡る」句である。この句は、二つの言葉「硬質の水」「パリ」で、広くヨーロッパの山野の土の性質も、地形も、生活も、全てを表現する。ヨーロッパアルプス、セーヌ川、ミネラルウォーター、連想が連想を呼ぶ。エビアンを手におしゃれなパリジェンヌも歩いている。傘をささない彼女に時雨が降り、カフェに逃げ込む様子が見える。

 

山茶花や昨日と今日の境目に

 昨日と今日に境目はあるのだろうか。不思議な句である。山茶花は境目なくいつの間にか花過ぎとなっていく。昨日と今日の境目にいるのは人であろうか。境遇が変わるなにかに直面している、そういう緊迫感がある。深入りさせてもらえない。

 

赤坂に花を残して逝かれけり

 お知り合いの方が逝かれた。赤坂に住んでおられた。地方に住まう私は、赤坂という大都会の真ん中に、残された花は世話をしないと枯れてしまう鉢植えのものかもしれないと思うばかりである。心残りを感じてしまう。縁故の方に引き取られたであろうか。