文豪と俳句」 を読みました。

文豪と俳句」を読みました。

        2021/09/02

        十河 智

 

「文豪と俳句」

    岸本尚毅著 

    集英社新書

 


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 岸本尚毅さんの選を受けている句会から、岸本さんの新著「文豪と俳句」が送られてきた。一括購入して送料は句会費から出す形で、本が届く。

 この本は軽い読み物として持ち歩いて読める。尚毅さんの文章は纏りが良く、上手く途切れるので、その意味でも持ち歩きに良い内容であった。章の副題が、絶妙で、読む気を起こさせた。

 取り上げられた作家の俳句の半分は昔どこかで読んだ記憶がある。したがって、俳句もそれなりに読んでいたものがあった。名前は十二人、全て知っているが、内田百閒、川上弘美は、作品を読んだことがない。

 副題のユニークさは、各章に独特の核心への迫り方を要求するかのようで、作家ごとの章、それぞれは独立し、その作家の俳句を紹介するのにふさわしい方法で、構成も文章の組み立ても為されているように感じられる。

 全体は、「俳句を読む」という統一テーマ。

 個個の作家へは、その作家の俳句の、一番良い形で丁寧に俳句を紹介し、文豪の、俳句との繋りの緩急・度合から、俳句をどういう思惑のもとで発し、どのような形で発表したか、まで、作家を何も知らなくても、俳句をしているものには、とても興味深く、いつも接する俳句世界とは違うちょっとハッとするものを見せて貰えて、示唆に富み、読み物として、面白かった。

 

はじめに

 小説家に焦点を当てたことで、彼らの多様な俳句への切り込み方に頭を悩ませたとある。

 そして考えた末の切り込み方が、的を射たその対象者によくあった鑑賞法を、引き出せている。

 

【その1】

幸田露伴〉の章

  ─露伴流俳句の楽しみ方

 

「いずこへ行きたもう父上よ。

 

老子霞み牛霞み流砂かすみけり 露伴

 

 逝きたもうか父上よ。

 

獅子の児の親を仰げば霞かな 露伴

 

 親は遂に捐(す)てず、子もまた捐(す)てられなかったが、死は相捐(す)てた。躍りあがれぬ文子が一人ここにいる。」

露伴の娘幸田文が、『父―その死―』

の中で、記した思い。その文(あや)の心の中に露伴の俳句が入り込んでいます。」と岸本尚毅さんは紹介しています。

露伴は少年時代から俳書に親しんだ。青春の鬱屈を俳句に託した。小説の趣向に芭蕉の句を使った。身内を相手に自宅で俳諧を講じた。」

「膨大な仕事の合間を縫っての折々の句作」

「その文人としての全人格を以て、作り手としてのみならず、読み手として俳句に向き合ったこと、さらに、俳句が家族との絆になったことなども含めれば、露伴の俳句生活はとても充実し、幸せなものだった」

 岸本尚毅さんの露伴の章はこう結んでいます。

 

【その2】

尾崎紅葉〉の章

  ─三十五歳の晩年

 

岸本尚毅さんは、『金色夜叉』で有名な尾崎紅葉俳人としても声望があり、秋声会の幹部であったと紹介し、発表した句に見られる推敲のあとを追っておられる。

 

元日の混沌として暮れにけり 紅葉

「太陽」明治三十一年一月一日、

俳諧新潮』明治三十ニ年と明治三十六年の年頭詠に使う。

 各文節の音数がぴったり五七五、句形が美しい。)

混沌として元日の暮れにけり 紅葉

(明治三十六年九月十九日刊『俳諧新潮』に収載。 

 紅葉は、三十五歳で、明治三十六年十月三十日に胃癌のために死去。

 胃癌で死を意識した後改作したと見られる。

 改作の結果、句意の明瞭さと句形の美しさは減じますが、「混沌」が強調される。元日のめでたさを押し殺すように、「混沌」が一句にかぶさる。改作で、この句は、三十五歳の晩年を象徴するような作品になった。)

混沌として元日の暮れにける 紅葉

(別の『俳諧新潮』が存在し、死を間近にした紅葉がこの句をさらに推敲した可能性があるとしている。「けり」を「ける」に直し、句末の切れを弱めている。これで、句頭の「混沌」が強調され、より作者の気持ちに叶っているように思われると、岸本尚毅さんは書いている。)

 紅葉が、最晩年に残した病床の日常句を、子規のそれとも比べつつ、岸本尚毅さんは、紹介・解説を加えている。

絶筆

 寒詣翔るちんゝゝ千鳥かな 紅葉

(死の八日前の吟。

斎藤松洲の絵の讃として。

 ここでも子規の

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」

をだして比較し、岸本尚毅さんは、紅葉の絶筆の遊び心、最後まで見せた、洒脱さとサービス精神を指摘している。紅葉は、根っからの俳句好きだったと言っている。)

 

【その3】

泉鏡花〉の章

  ─鏡花的世界の精巧なミニチュア

 

(この章は、変に抜粋したりするより、岸本尚毅さんが、句に感じ取った物語、鏡花的ミニチュアのような、という世界を、鏡花が作品に描いた実物大のお話の中に見つけ出して、書き込んでおられるので、是非読んでもらいたいなと思う。とっても面白い展開で、俳句にこんな解説もあるのかと、目からウロコであった。題と句、セットで二、三、上げておく。)

 

❋人とる沼

わが恋は人とる沼の花菖蒲 鏡花

 

❋人形

山姫やすゝきの中の京人形 鏡花

 

❋能の面影

打ち乱れ片乳白き砧かな 鏡花

幻の添水見えける茂りかな 鏡花

 

(岸本尚毅さんは、能に造詣が深く、演目についてもよくご存知だと、仕舞を長く趣味でお習いの句会の先輩俳人から聞いたことがある。一緒に能舞台をご覧になったとも聞いた。そんな岸本尚毅さんの、この節の鑑賞文は、圧巻と言える。舞台が再現されているようであった。)

 

❋母恋

灌仏や桐咲くそらに母夫人 鏡花

 

(この句は、岸本尚毅さんが、愛誦してやまない句だそうです。「桐の花のかなたの空に釈迦の母の摩耶夫人がいて諸々の衆生を見守っている。」そういう句だそうです。鏡花には、摩耶夫人像を素材にした『夫人利生記』という作品があり、九歳で母を亡くした鏡花の母恋の思いがよく現れているそうです。そこにある母の像、「永遠の女性」のイメージが、この句にも美しく現出している。岸本さんの締めくくりの一行にこう書かれていました。)

 

 

【その4】

森鷗外〉の章

  ─陸軍軍医部長の戦場のユーモア

 

”戦場”と”ユーモア”が言葉として並ぶと、かなり違和感がある。岸本尚毅さんはなぜこんな題をこの章に付けたのだろうか。そこが知りたくて、ぐいぐいとひきこまれるように、読み進んだ。

 

 鷗外の俳句にある言葉選びによる遊び、ユーモアと、その俳句が作られた周辺の戦場、日露戦争の戦績の実態とが、並べて交互に記される、奇妙な構成。それを読んでいく。

 

 岸本尚毅さん自体、「鷗外の句の持つおかしみ、一兵卒の句であれば、戦場の一コマということで終わる。しかし『死傷約七千』の陣中にある軍医の句だと思うと、鷗外はどんな思いでこの句を詠んだのだろうか、鴎外にとって俳句とは何だったのだろうか、と問いたくなる。」そう疑問を投げかけています。

 

 岸本尚毅さんの挙げた、鷗外の句と戦況を、並べてみます。句は、戦地で鴎外が詠んだ詩歌を、戦後自ら編集した『うた日記』から引用されている。

 

日露戦争、その戦場のユーモア〙

 

素足らで 粥に切り込む 南瓜かな 鷗外

『「切り込む」は、精兵たる米が足りないので、予備役の南瓜が決死の覚悟で粥に切り込むというユーモアです。』と岸本尚毅さんは書いている。

 この句には、「明治37年8月31日於沙河南岸高地」と詞書が添えられている。

 以下は、その日の戦闘の戦報に記された内容である。

[日露両軍で四万人以上の死傷者を出した遼陽会戦のさなか、31日午前3時頃からの夜襲を決行。初め主山堡南方高地の南部を奪取するも、地勢の有利な敵の逆襲を受け、奮戦乱闘の後、多大の損害を受けて高地脚に撃退せられたり。我が軍の死傷者約七千。]

 

朧夜や 精衛の石 ざんぶりと 鴎外

「明治三十七年五月二日鎮南浦にて閉塞船の事を聞く」と詞書。

『「旅順港閉塞作戦」の報を耳にした鷗外が、「精衛の石ざんぶりと」と洒落たのです。句は威勢がよいのですが、作戦は失敗に終わりました。』と岸本尚毅さんは書いている。

 これは、戦史に残る「旅順港閉塞作戦」のこと。

[五月一日、第三次閉塞隊の輸送船十二隻が出撃。その報を聞き、鷗外は五月二日にこの句を作った。翌五月三日、旅順湾口に突入した閉塞隊は多くの犠牲を出し、作戦は失敗に終わった。]

 

次の節で、岸本尚毅さんは、鷗外と子規・虚子との接点、交流を述べて、先の疑問を解き明かそうとします。

 

〘鷗外と子規・虚子〙

戦場にあって俳味のある句を詠んだ鷗外には俳句の下地があり、俳句との接点に正岡子規高浜虚子がいたと、岸本尚毅さんは、鷗外と、この二人との交流について、書いています。

 子規とは、彼が従軍記者となった日清戦争の戦場で、鷗外を訪ねて出会い、俳句を語り合い、手紙を出し合った仲でした。その弟子である虚子に、鷗外は「俳句のことは分からぬから選をしてくれ」と、虚子に『うた日記』の中の俳句の選をしてもらったそうです。虚子の添削した句も紹介しています。

 『うた日記』には、鷗外が日露戦争出征時戦地で詠んだ詩歌を、戦後自ら編集したもので、短歌三百三十一首、俳句百六十八句、新体詩五十八編、訳詩九編、長歌九首が収められています。

 

瞑目す 畔の馬楝の 花のもと 鷗外

 

馬楝(ばりん、ネジアヤメ)

 

この句の前に、四千名の死者を出した南山の戦い(明治三十七年五月)を詠じた「唇の血」という詩が置かれています。その末尾は、「侯伯は よしや富貴に 老いんとも 南山の 唇の血を 忘れめや」と結んでいるそうです。

 岸本尚毅さんは、この詩と句をこう鑑賞しています。

「兵の犠牲で功成った『侯伯』に毒づいた鷗外は、瞑目して兵の死を悼みました。」

 

『うた日記』の俳句と、それに伴う戦争の現実を伝えようとする詩歌、また、元歌として根を下ろす古典の素養。その生み出す軋轢についても岸本尚毅さんは、書いています。

「伝統的詩文の素養を備えた鷗外の紡ぎ出す詩句は、『兵どもが夢の跡』や『海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍』のような古典の地平に近づきます。反面『死傷約七千』という近代戦争の過酷さからは遠ざかります。戦争の現実と、詩歌としての洗練をどう関係づけるか。その問いは詩人の内面に軋轢を生みます。」

 

五百七十五編を収める大著『うた日記』

そこに見る詩想は、多種多彩。

 

「戦地にあって千々に乱れる心をそのままぶちまけたかのように圧倒的です。投入された詩的エネルギーの巨大さは、鷗外の詩心に戦争が重たくのしかかっていたことを物語ります。この『うた日記』にとって、俳句はどのような意味をもつのでしょうか………。」

 

 岸本尚毅さんは、『うた日記』の中の、蠅が妙に印象的と言って、取り上げています。

 

 鷗外は蠅を、詩、短歌、俳句の三詩形に詠み分けていて、「蠅の卑俗さや諧謔味がどの詩形にも生かされています。」と言い、また「漫画的な蠅の様相を鷗外は自在に詠いました。」とも。

 

 その中にあって、

「死は易く 生は蠅にぞ 悩みける」

 この句は肩の力が抜け、無技巧に近い、と岸本尚毅さんは評しています。

 

 森鷗外の章、最後の一ページには、こう書かれています。

 

「気合の入った詩や短歌と対照的に、俳句はのんびりとしています。」

「出征中の鷗外は、詩歌と戦争、文人と軍人、『こすもぽりいと』と国家への忠誠、さらには嫁と姑といった、様々な相克の下にありました。そんな鷗外は、ときには高揚した、ときには沈鬱な詩を書き、蠅の短歌のような吹っ切れた作を生みました。

 その中にあって、俳句だけは超然としています。(中略)俳句ではその短い形式に見合った即時・即興を詠ったのです。鷗外はそれ以上のことを俳句に求めなかった。(中略)肩の力の抜けた、伸びやかな、遊び心のある、とても鷗外とは思えないような句が生まれたのです。」

 

 岸本尚毅さんのこの章のこれが結論です。

 

「鷗外という複雑なキャラクターをすりぬけて、俳句が俳句らしい姿を現した。鷗外の、俳句はそんな俳句だと思います。」

 

【その5】

芥川龍之介〉の章

 ──違いのわかる男

 

 この傍題も面白い。

 最初からなんの疑いもなく受け入れられる。あのコーヒーのコマーシャルに被るような芥川龍之介ポートレートも浮かび上がって、うまく選んだな、という気がする。

 しかし、この言葉を岸本尚毅さんはただそれだけの事で選んだわけではない。この章、芥川龍之介の俳句で最も言いたい事を、一番良く表現できるフレーズでもあるから、ここに置いた厳選された表現なのだ。読んでいくと、なるほど、芥川龍之介は「違いのわかる」男だとわかる。

 

蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな 龍之介

青蛙おのれもペンキ塗りたてか

 

まず最初にこの二句を挙げて、岸本尚毅さんは、芥川龍之介

俳句においても、

“抜群の書き手”、

“才人”、

と褒め上げています。

この二句、いずれも感覚の鋭い、機知に富んだ句と言っています。

「才気を以て易易と句を詠んだのでしょうか。この二句を見るとそんな感じもします。他方、ああでもないこうでもないと一字一字をひねくり回すこともありました。本章では、芥川のそんな一面に着目します。」

 見事に読むものの興味を、「違いのわかる男、芥川龍之介」に向けさせる導入部です。

 実際、冒頭の二句、ひと目見た途端、私も「おっ、これ龍之介だったんか。」でした。作者を失念していても、句は忘れる事ができないくらい独特で印象的です。現代の若者も書きそうな、作りそうな、カタカナを混じえた表記。現に目の前に蝶や蛙を見ているかのように感じるほどの再現性の高い表現。岸本尚毅さんも述べていますが、「小動物に対する愛情も感じられます。」ここに出てくる蝶も蛙も、可愛くてしばらく眺めていたのだと思われます。

 

 本論は、一字一字にこだわり、推敲を重ねた芥川龍之介の俳句を見ていくことです。

 大正九年、二十八歳のときの作、「馬の糞」で作られた七句を並べ、こう述べています。

「これを見ると俳人の頭の働かせ方がわかります。」

「十七音の一部を変えたとき、17音全体がどう変化するか。そんなことに関心を持つのは俳句そのものが好きだから。いわば俳句オタクです。芥川もそうでした。」

 芥川龍之介の自選句集『澄江堂句集』に収録された七十七句を、完成度の高い厳選のものとし、発表された別の句案と並べて見比べ、芥川龍之介の思考過程を探っている。

「芥川がどれほど俳句好きだったか。どれほど一字一字にこだわったか。」

 それを検証している。

 この章の最後、「芭蕉から芥川へ」の段がとても興味深かった。新鮮な感覚を与えてくれた。この先、俳句を私自身で考える上で、この感覚を覚えたことは、かなり重くのしかかるような気がする。

 芥川龍之介芭蕉に向き合う姿勢を彼の作品から紹介している。芭蕉頌ともいうべき『芭蕉雑記』、そこで試みられた芭蕉と蕪村の句合わせで、例えば「春雨」の句を取り上げ、所詮蕪村の十二句も芭蕉のニ句の前には如何ともできぬと評するほかはないと、芭蕉対蕪村の「春雨」対決で、芭蕉に軍配を上げた。岸本尚毅さんは、言葉と言葉の関係の中からうまれる「調べ」について、芥川龍之介のこだわりを述べている。芭蕉と蕪村では一句全体に統べる調べがあるかないかに違いを見つけ出している、芥川龍之介に変わってまとめあげている。芭蕉の句を「春雨」を含めた十七音全体が緊密なアンサンブルを奏でていると言う。蕪村の句は、「春雨」というソリストに依存していて、しかも巧く目立たせていると言う。芥川龍之介は、この俳句の二大巨匠の本質的な違いを見抜いていたとも言う。岸本尚毅さんは、このことを解説する注に記す、「芥川の蕪村批判は、蕪村を称揚し『蕪村派』と称された子規以降の『ホトトギス』派への批判でもある。『発句私見』では、調べにおいて、子規系の『大正人』は『元禄人』に及ばない、と指摘している。」

 私自身はどこに身を置いているか、をこの論により考えさせられた。これは才のものあり、岸本尚毅さんも言う、本質的なものであるから、変えようとする努力の対象とはならない気がする。しかし、心に深く沈んで、現代俳句のあり方を考えさせられた。

 

 この章の最後に、芭蕉俳句を愛し、みずからも俳句を「生涯の道の草」とした芥川龍之介の俳句と子規の直系、「ホトトギス」の高浜虚子の俳句を句合わせ風に並べて、「どちらがお好きですか?」と聞いています。

 

凩や目刺に残る海の色 芥川龍之介

蒼海の色尚存す目刺かな 高浜虚子

 

 岸本尚毅さんは、「人気投票では芥川の圧勝だと思います。」、と書いています。私も芥川龍之介に押しました。

 この句について、岸本尚毅さんが、「中学生の頃に出会い、『凩』から『目刺に残る海の色』への転じにゾクッと来ました。」、と言っています。「たかが目刺でこんな大きな世界をつかむことができるのかと、それ以来、俳句少年になってしまったのです。」とも言っています。

 この一句のおかげで、私は、この本に出会えたということですね。

 

 

【その6】

〈内田百閒〉の章

  ─「現代随一の文章家」の俳句

 

 傍題の「現代随一の文章家」というのは、三島由紀夫が百閒を評して言った言葉だそうです。

 岸本尚毅さんは、この章の冒頭に三島由紀夫の言葉を「『日本の文学34』解説」から、引用しています。

 「百閒文学は、人に涙を流させず、猥藝感を起こさせず、しかも人生の最奥の真実を暗示し、一方、鬼気の表現に卓越している。」

 「百閒の文章に奥深く分け入って見れば、氏が少しも難しい観念的な言葉遣いなどをしていないのに、大へんな気むずかしさで言葉をえらび、こう書けばこう受けるとわかっている表現をすべて捨てて、いささかの甘さも自己陶酔もせず、しかもこれしかないという、究極の正確さをただニュアンスのみで暗示している、皮肉この上ない芸術品を、一篇一篇成就していることがわかる。」

 

 三島由紀夫が大絶賛する文章、読んだ記憶がない。だが、この「日本の文学」中央公論社ではないが、うちにあった別の全集にも、確認すると、内田百閒は収録されていたらしく、高校生の私は、ここに引用されているほんの少しの部分にも見える「妖しさ」「アンバランス」が、肝試しのように思えたか何かで、敬遠したのかもと思う。全く読んだ記憶がない。

 岸本尚毅さんは、百閒の俳句にある情景と様相の似通う散文を百閒の作品中に探して、俳句に添えています。私のように、百閒を全く知らない者にも、面白く読むことができる解説手法だと思いました。

 岸本尚毅さんが挙げた俳句を紹介しておこう。

 

あやしく光る水

 

秋立つや地を這ふ水に光あり 百閒

 この句には、百閒の『東京物語』の一場面が添えられている。

「白光りのする水が大きな一つの塊になって、少しづつ、あっちこっちに揺れだした。」

 

短夜の浪光りつゝ流れ鳧 百閒

大なまづ揚げて夜振りの雨となり 百閒

稲妻の消えたる海の鈍りかな 百閒

春月や川州の砂の宵光り 百閒

古井戸の底の光や星月夜 百閒

 

〘「あやしく光る水」と括った段に挙げられた句です。間に百閒の散文の描写を挿入して、披露しています。以下も同様の構成で、百閒の句と散文の共通項を紹介しています。〙

 

光る、翳る

 

〘百閒の句はしばしば、明と暗を並置し、薄ら明り、明るい中の一抹の翳り(またはその逆)を感じさせる句が多い。〙

 

内明りする土間の土凩す 百閒

春近し空に影ある水の色 百閒

・・・・・

・・・・・

昼来し家を夜寒心に見て過ぎし 百閒

広庭に虻が陰食ふ日向かな 百閒

 

 

風が吹く

 

〘百閒のフアンは、作品の至るところに風が吹いていることを、指摘し、句中に風が吹いただけで怖いという。〙

 

砂原の風吹き止まず朝の月 百閒

木蓮や塀の外吹く俄風 百閒

軒風や雛の顔は真白なる 百閒

町なかの藪に風あり春の宵 百閒

 

音がする

〘音がする、風が吹く、それをなんの説明もなく俳句にするのが、百閒流なのかも。不吉な感じ、いつも正体不明の何かがつきまとう。そんな句が並んでいます。〙

 

浮く虻や鞴の舌の不浄鳴り 百閒

・・・・・

・・・・

秋風の海に落ちたる音を聞けり 百閒

・・・・・

・・・・・

種豚が猫泣きするや秋の風 百閒

 

〘夜を思わせるものを「ひるの○○」と詠む。百閒はときどき俳句に「昼」を詠みます。百閒の昼の句には、気の抜けたような、不景気な「昼」の気分が漂っています。〙

 

茶の花を渡る真昼の地震かな 百閒

・・・・・

・・・・・

昼火事の火の子飛び来る花野かな 百閒

・・・・・

岸壁の昼のこほろぎに船出する 百閒

・・・・・

饂飩屋の昼来る町や暮の秋 百閒

 

 

俳人百閒の「欠点」

 

 この章の最後には、わざわざ、

 俳人百閒の「欠点」

という段を設けて、百閒の句は三島由紀夫が絶賛した散文と似た雰囲気を持つという。が、一方で、詩人平出隆が指摘する百閒の句の「切れというものへの意識」が弱い、ということについても、かなり詳しく論評している。

 岸本尚毅さんは、百閒に切れを解くのは、角を矯めて牛を殺すようなものかもしれぬという。切れの弱さが百閒俳句という平出も、結論は、「虚実を自在に操る随筆」という百閒文学の本質に結びつけている、と。

 百閒は、自分と同様に怪異を信じていない読者に「鬼気」を味わわせるため、現実から超現実へ漸層的に移行するような書き方をした。この散文の「漸層法」と、切れ(飛躍や断絶)を重視する俳句の文体。「相性が悪そうです。」と、岸本尚毅さんは言っている。

 

岸本尚毅さんが最後に挙げた百閒の二句。この二句だけで百閒の俳句が語れるかもしれません、と岸本尚毅さんは言うのです。

 

冬近き水際の杭のそら乾き 百閒

 そら乾きのそらは、空耳や空音のそら。水際の杭は乾いているような、いないような。無意味な細部へのこだわり。

 

竜天に昇りしあとの田螺かな 百閒

 竜天に登る、田螺、春の季語二つ。「竜」「田螺」の虚実の交錯。

 

 

【その7】

宮沢賢治〉の章

  ─俳句を突き破って現れる詩人の圭角

 

 現存する宮沢賢治の俳句は30句ほどで、「菊の連作」16句が含まれている。

 岸本尚毅さんの評は、「詩人ならではの魅力ある作品」という言葉で表している。俳句を鑑賞するのに、もとになったと思われる原詩をあげて、感覚や言葉の選択について、詩人賢治の作る俳句を読むとき、俳人のメガネを外してみよという。

 一見、下手で、散文的と思われる賢治の俳句。

 

岩と松峠の上はみぞれのそら 賢治

 

 この句を読んだ、石寒太は、

「普通の俳人なら字余りを避けて『みぞれぞら』と書く。」といい、

菅原閧也は、「『峠の上は』と中七に『は』を用いたこと、『みぞれぞら』でなく、『みぞれのそら』と6音にしたことが、この句を散文化した」と指摘します。

 

 岸本尚毅さんは、ここで、

「俳句のメガネを外して見ると、『峠の・上は・みぞれの・そら』という訥々とした調子は、賢治の声を聞くような感じがします。

 詩の中では

『向ふは岩と松との高み/その左にはがらんと暗いみぞれのそらが開いてゐる』という賢治の言葉はのびやかに響きます。ところが俳句の中では『みぞれのそら』が字余りになる。賢治にとって俳句窮屈だったでしょう。字余りを避けて『みぞれそら』『みぞれぞら』とすると

、『みぞれ』が『そら』の一部になってしまう。賢治は『みぞれ』と『そら』が別々の言葉として、それぞれが一語一語として粒立っていることにこだわったのだと思います。」と言っています。

 言葉へのこだわり、誰にもあるような気がします。よくわかります。賢治が詩人だからというわけでもなく、ひとそれぞれの生き様からくる言葉へのこだわりはあると思います。

 さらに、岸本尚毅さんは、「賢治は『みぞれのそら』という六音のフレーズを、俳句の下五に押し込みました。その結果、詩人の腕力が俳句を歪ませた様な、独自の趣の俳句が生まれました。」と、結論しています。私は肯定的に受け取っていますが、読みようによっては否定的とも取れる。俳句を、独立した分野とするか、韻律のある詩歌の一部とするか、そういうところまで行きそうです。

 ここでは岸本尚毅さんが詳しく取り上げたこの一句を挙げるに留めます。

 俳句が、多くの人に作られる、裾野が広がるというのはすばらしいことですが、現代俳句を見渡すと、賢治の句のような、ある意味、その作者の「腕力が俳句を歪ませた様な、独自の趣の俳句が生まれる」時代になっているかもしれないと、感じてもいるこの頃なので、考えさせられる章でした。

 

 

【その8】

室生犀星〉の章

  ─美しい「うた」の背景

 

★犀星の二面性

 この章の初めは、犀星と長い交流のある、生涯の友となった、萩原朔太郎の言葉で、犀星の文学の持つ二面性を語っている。

 

「粗野で逞しいポーズ」

「優しくいぢらしいセンチメント」

 

★美しい「うた」

「優しくいぢらしいセンチメント」は、美しい「うた」となって現れる。岸本尚毅さんがそう言って取り上げる詩。

 犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」は一読すっと心に入ってきます。そう書いて、また何フレーズか、紹介する。

 「蛇を眺むる心蛇になる」「渚には蒼き波のむれ/かもめのごとくひるがへる」「君はいつも無口のつぐみどり/わかきそなたはつぐみどり」「いづことしなく/しいいとせみの啼きけり」のように、と。

 犀星の俳句もまた、美しい「うた」です、と。

 

ゆきふるといひしばかりの人しづか 犀星

 

 この句のこの表記は、『犀星発句集』(桜井書店、昭和十七年)のもの。

この句、初出は「雪ふるといひしままなる人しづか」だったそうです。(星野晃一 『犀星 句中遊泳』)

 

この句、音を見ていくと、

ユ キ*フ ル ト イ*イ*シ*バ カ リ*ノ ヒ*ト シ*ズ カ

 イ段の鋭い音が十七音中七音を占める。この音の効果。

 岸本尚毅さんは他の句についても、音韻について考察されています。音韻は美しい「うた」の構成要素とおもいます。

 

 また、最後の句集となった『遠野集』(昭和三十四年)では、表記を違えて春の章、冬の章に二回現れており、表記によって違う効果をださせています。

 

『遠野集』より

 

藪の中のひと町つゞき残る雪

雪凍てて垣根のへりに残りけり

春もやや瓦瓦のはだら雪

雪ふると言ひしばかりの人しづか

    (春の章)

 

 「ここでは雪の表記は『雪』に揃えていて、『残る雪』『はだら雪』は春季、故に『雪ふると言ひしばかりの人しづか』も春の雪です」と、岸本尚毅さんの解説にあります。

 

かはらのゆきはなぎさから消える

ゆきふるといひしばかりのひとしづか

ゆきのとなり家はかなりやのこゑ

    (冬の章)

 

 「雪は『ゆき』と書かれています。平仮名の多用は音の美しさ──『カ*ハ*ラ*ノ ユ キ ハ*ナ*ギ サ*カ*ラ*キ エ ル』のア段の音の連続。『ユキノトナリヤカナリヤノコエ』のナリヤの反復など──を印象づけます。『雪降ると言ひし許の人静か』と比べると『ゆきふるといひしばかりのひとしづか』は呟くような感じがして、字面が美しい。」と岸本尚毅さんは書いています。

 他のところでも、「手で書いた原稿には、音読へのこだわりがあらわれています。」「犀星の句には文字となる以前に、音声として完成している印象があります。」と書いています。犀星が、音韻にこだわるあまり文法や仮名遣いを誤った事例も取り上げて説明を加えている。

 

 また中村真一郎の『俳句の楽しみ』での評を取り上げて、

彼が犀星の表現を、

「耳に熟さない言葉を平然と使用するところが、犀星の新感覚(『竹の風ひねもすさわぐ春日かな』の『竹の風』について)」

「敢えてこうした、若い娘の口癖のような言葉を、不協和音のように句中に挿入するところに、作者が自分の句が手なれて出来のよくなることへの、片意地な反抗が見られるし、又、作者独特の底意のない意地悪のようなものも、ほのかに感じられる。(『しんとする芝居さい中あられかな』の『さい中』について)」

と評していると紹介しています。

 これらについて、岸本尚毅さんは、

終日吹き続けている風と竹が一つになっている感じを出そうとすれば「竹の風」、「芝居さい中」は荒っぽい言い方ですが、話し言葉に近く、その点を犀星は好んだのかもと言い、霰の寒さを背景にした句ですから、「シントスルシバイ」の後に「サイチュウ」という鋭い響きが欲しかったのかもしれませんと言う。

 この段の最後に、

朔太郎は、犀星の句を「人物と同じく粗剛」と評し、おなじ印象を、中村真一郎は、「作者独特の底意のない意地悪」という言い方で語っています、

と書いています。

 

★「匹婦」

 この段の題は、「匹婦」私は「ひっぷ」と入力して最初に変換される、「匹夫」しか今まで見たことがありません。岸本尚毅さんは、この段で、犀星の句の「粗野で逞しいポーズ」を伴った句を取り上げています。

 

おそ春の雀のあたま焦げにけり 犀星

昼深く蟻のぢごくのつづきけり

炎天や瓦をすべる兜虫

 

 岸本尚毅さんは、鳥や虫に対する情がある。どれも響きの良い句だと言っています。

 そしてこうも書いています。

「犀星の句は美しい感情を湛えています。その『優しくいぢらしいセンチメント』と同じ根っこから、全く対照的な『粗野で逞しいポーズ』を伴った句も生まれます。」

 

夏の日の匹婦の腹にうまれけり 犀星

 

 犀星は、詩の中でも出生の事情を問い続けたと言います。娘の室生朝子はこの句について、「人間のすべてをいい表している凄まじい一句」(『父 犀星の背景』)と評しているそうです。

 犀星が、「俳句研究」に発表された、日野草城の「ミヤコ・ホテル」を、絶賛し、逆に草城が犀星の「昼深く蟻のぢごくのつづきけり」の句などを褒めた話もあり、おもしろかった。

 

★生活者犀星

 この段に書かれている内容は、俳句をやるものならなんとなくわかっているようなことである。   

 が、犀星が、こんなにちゃんと考えを著作の中で述べていたとは、驚きでした。岸本尚毅さんも、犀星の言わんとする処を、きちんと受け止めて紹介しています。

 犀星の出自とその作家としての暮らしぶり、売文稼業と岸本尚毅さんが断ずるほどのタフな生活者、犀星がいるようです。

 犀星は、軽井沢に別荘を持ち、再三訪ねてくる志賀直哉を、迷惑がっていたというエピソードを紹介しています。

「志賀はまるで自分の庭のように大股で入ってきて、犀星が執筆の最中の書斎に座るとひとしきり四方山話を楽しむ。犀星は『何も仕事をしないあの人(志賀)が、他人の都合を考えないで生きてゆけるのも、あの人が美貌だからだ』と、話を容貌にもっていって口惜しがった。育ちも器量もいいから遊んでいても名士でいられるのだという。」(田辺徹『回想の室生犀星』)

 小説と文筆で、基本的な生活を成り立たせ、俳句は余技であった犀星の俳句は、生きること、食っていくことを正面から詠んでいると、岸本尚毅さんはここで書いています。

 

元日や銭を思へばはるかなる 犀星

 

 犀星は、小説を書かない韻文家はどうやってメシを食うか、ということを考えていました。『芭蕉雑記』(昭和三

年)の中で、芭蕉の生活費に言及し、「芭蕉の選料は相応に収入があったものに思へる。」と俳人の稼ぎは選句料という俳人のビジネスモデルの本質を突いています。

 犀星が、「ミヤコ・ホテル」を称賛した「俳句は老人文学ではない」の中で、俳人の生計に触れています。ここでは、岸本尚毅さんの引用から、犀星の考えをお伝えしたいと思います。

俳人は俳句を職業としていない。俳句精神の神聖さを感じ過ぎて、本当の職業として俳句を取り扱っていないからだ。文士が原稿料を取るように俳人は執筆料を取らなければならない。俳人が俳句で食うのになんの恥かしさがあるのだ。俳句ももっと生活苦の中をくぐり抜けなければ、磨かれずに終って了う。」

河東碧梧桐氏が赤貧に甘んじて居られるという文章を読んで、怏々としてたのしまなかった。門下で一万円くらい集めて碧梧桐氏におくることくらい出来ないのか。」

 犀星は、河東碧梧桐の新傾向俳句の影響を受け、後に芭蕉に傾倒し、それを離れます。芭蕉と碧梧桐の俳句人生を経済的側面から語っている文章が残る所以です。

 岸本尚毅さんはこの犀星の文章が書かれた翌年、門下が支援して家を持たせたが、直ぐに急病で63歳の碧梧桐は亡くなったと、エピソードとして、書いてくれています。

 「他に職業を持っているため遊びのように見られるが、実際俳句は苦しまなければ生まれない。」

「ナマ若い詩や歌にはいり切れない心には重いものを負い、その重いものを片づけるために俳句の精神にくぐり込もうとしている。老年者の手弄びのような生やさしいものではない。」

「単に俳句を作るというようなノンビリさはもう見えなくなって、芸術制作の苦しさばかりがある。」

 

 確かに、俳句の世界は不思議です。かなりの大宗匠でも、江戸時代から今に至るまで、本業のある人が多かった。俳句を始めた頃、句会で、俳句以外の事に立ち入らないようにと釘を刺されたりもした。句友たちの本業についても、だんだんに知る、というのが、今も礼儀であるように思います。

 私が接する俳句世界は、現実、俳句をやる人の平均年齢は高く、老年者の手弄びのような俳句も永々と続いてはいます。

 また、句集として発表されたり、雑誌に投稿される読む方の俳句には、ここで犀星の言う芸術、文学としての俳句もあると感じます。こちらの俳句もまた、滅する事なく、根を張って勢いづき、今があるように思います。

 

★「骨髄まで俳人なり」

 この章の最後の段です。犀星が、虚子が金沢に来たとき、虚子に会って、語ったときの印象をこう表わしました。

 岸本尚毅さんは、犀星が、五十歳、十五歳年上の虚子に、俳人としての腹の据わり方を見たのだと思うと書いています。詩歌でメシが食えないという点は、犀星も虚子も同じですが、小説に転身した犀星とは異なるビジネスモデルを、虚子は構築し、全国の俳句大会への出席は、虚子の営業活動であり、「ホトトギス」の選者として声望を得ていたのです。

 犀星は、散文家たる虚子に思いをぶつけ、「虚子の発句を採らないでも、彼のかいた小説をとりたい」と挑発し、鋸歯はそれを受け止めて引用、後に小説も書いたと、いきさつが書かれています。

 

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな 犀星

 

と言ひて鼻かむ僧の夜寒かな 虚子

 

 岸本尚毅さんは、最後に二人の夜寒の句を並べます。「同じ『夜寒』でも、犀星と虚子は肌合いが違います。ともに偉大な韻文家ですが、両者は対象的な道を歩みました。『虚子氏と語る。骨髄までの俳人なり』は犀星ならではの重い言葉です。」と締め括りました。

 

 

【その9】

太宰治〉の章

そして、

  〈読み終えて〉

 

太宰治〉の章

 太宰治は、句作はあまりしていないこともあり、芭蕉連句評『天狗』が取り上げられているのみで、短く簡単に一章となっていた。ここで、印象に残る太宰の一句と、岸本尚毅さんが引いた、『天狗』の一節を掲げておこう。

 

幇間の道化窶れやみづつぱな 治

 

 岸本尚毅さんは、この句を、太宰が自分の人生を振り返っているかのようです、と書いている。『人間失格』に貫き通す、自己嫌悪感が、ここにも表れている。「みづっぱなが」が、妙に具体的、現実的で、やつれ切った気分が増幅されていると、私も感じる。岸本尚毅さんも書いているが、この句の裏に、『人間失格』、落語『鰻の幇間』や『幇間腹』を、匂わせて入るが、実は、学生運動をしていた東大生の頃の作だという。あとから読むと、『人間失格』をつづめたような俳句と岸本尚毅さんの評価に同意するのだが、実はずっと若い頃の作だという種明かし。太宰治は一貫して太宰治であったと思う。

 次に、『天狗』より太宰が俳句というジャンルの本卒を見抜いていたことの証左となる一節と、岸本尚毅さんが押す文章を掲げて、太宰治から離れます。

 「芭蕉だって、名句が十あるかどうか、あやしいものだ。俳句は楽焼や墨流しに似ているところがあって、人意のままにならぬところがあるものだ。…………なにせ、十七文字なのだから。」

 

〈読み終えて〉

 一冊を、こんなにのめり込んで、丁寧に読むのは久しぶりだった。学生時代に返ったかのように、レポートを書く気分で、まとめを書いてきた。書き過ぎたかもしれない。でも、まあいいかと思う。いい本に出会った証になった。

 あと、横光利一川上弘美、の俳句はその作品との関係が深そうで、作品自体をあまり知らない。ここでは取り立てて取り上げることはできないと感じた。

 

夏目漱石永井荷風〉の章は、変わった仕立、十番勝負になっている。ただ、句座を同じくして作者が直接対決する俳句甲子園などとも違い、対決にあまり意味があるように感じなかった。あくまで私の不勉強のなせる結果であるのだが、勝敗の根拠が十分に納得はできなかった。こういう遊び方もあるのだと教えてもらえたことは良かった。好きな俳人二人、三人の同じ題の句を並べて、自分なりに競わせるのも楽しみかもと思ったりした。

 

 フェイスブック内を、「文豪と俳句」で検索かけて呼び出してみたら、この本を紹介、レビューしている人が、私だけでなく、他にも何人かいるようであった。

 多くの人に読まれるといい本だと、あらためて思った。