『鈴木牛後「句集」  にれかめる』を読みました。

『鈴木牛後「句集」 にれかめる』を読みました。
          2019/09/08
          十河智

 あるときの句会で、二、三句「牛飼」という言葉が使われた句が出たことがあった。題でもない。私たちは牛が普段いるようなところにはいない。不思議に思ったが、即吟の思案中、この「句集」がテーブルを回覧されていたのだ。帯に「牛飼詩人 鈴木牛後」とあった。
 角川俳句賞受賞者とは知っていたが、そのとき初めて牛を飼っていて、牛を詠む人と認識した。
 美しい景色の中の旅人が眺める牛とは違う、人に飼育され、搾乳され、売られていく牛と生業として牛飼である俳人の織り成す句集であった。
 見過ごせない成り行きの中のある刹那に見いだす詩情。感情を入れない叙述がかえって、非常なるもの、やるせないもの、を引き出して見せる。
 句集の全体に牧場の牛飼と牛がいる。雪と雪解け、牧場にいる山羊、蝶、鳶、猫。何気なく句に現れて生死の様が描かれる。そして、牧場の四囲の自然、四季として、星や木々、草の花が、印象的に
配置される。おそらく実景ではあろうが、句として完成させるために置かれたものと錯覚してしまうほど巧みである。

 例えば帯に掲げられた一句

牛死せり片眼は蒲公英に触れて

自選十句より

にれかめる牛に春日のとどまれり
発情の声たからかに牛の朱夏
仔牛待つ二百十日の外陰部
草紅葉歩けばひらく牛の蹄(つめ)

町の人間である私には、牛飼の生業が新鮮でもあり、珍しくもあったが、忘れかけている生物としての本能を呼び覚ましてくれる嘔吐くような生々しい表現もあり、少し重みを感じた句集である。

好きな句を挙げる


牧牛の口へ口へと夏の草
花野風牛の親子は縁薄し
冷ややかや人工乳首に螺子がある
牛群れてみな白息の向かう側


にれかめる牛に春日のとどまれり
よくはたらく我も毒餌を曳く蟻も
たましひは人より小さしちちろ鳴く
農機具の錆びゆくことも秋の色
雪庇落とし空をぱふんと楽にする


ものの芽や角を焼かるる牛の声
遠山の桜触らば消えさうに
ぎしぎしとギヤが噛み合ふ極暑かな
鬼灯や人の死に村若がへる
雪掘つてみれば淫らに土の膚


肉体一本万緑が締めあげてゆく
仔牛待つ二百十日の外陰部
星月夜一歩下がって見てしまふ
凍蝶の天然色を崩しけり
ちやりちやりとタイヤチェーンの鳴る初荷


牛死せり片眼は蒲公英に触れて
万緑の触手舗道の割れ目より
歩くとは雪から足を引つこ抜く
一条の懈き流れのほか凍河