大関博美著『「極限状況を刻む俳句」  ソ連抑留者・満州引揚者の証言に学ぶ~』を読みました。

大関博美著『「極限状況を刻む俳句」  ソ連抑留者・満州引揚者の証言に学ぶ~』を読みました。

      2023/06/14

      十河 智

 

 

 

 

 FBからお友達になり、一度京都でお会いできる機会を下さり、とても親しく感じている大関博美さんが、この度本を出版された。

 

「極限状況を刻む俳句」

 ソ連抑留者・満州引揚者の証言に学ぶ

 

 これは、筑紫磐井氏のインターネットサイト「ブログ俳句新空間」に連載されていたものを元に、纒められた俳句集であるとともに証言集である。上っ面な歴史の授業では決して学べなかった生生しく、時に残酷でさえある現実が目の前にあからさまに広げられていく。どれもとても大事な証言であり、資料となるものである。

 大関さんのお父様はシベリア抑留体験を家族に語ることがなかったという。うちでも、父は軍隊での経験を家族に話すことはなかった。応召のときの写真が残るのみである。

 母方の伯父は満鉄の技術者で、終戦後、シベリアに抑留され、シベリア鉄道の敷設の際にも従事したという。その家族は苦難の引揚者であり、私と同い年の従姉妹は引揚船で亡くなり、海へ葬られたと聞いた。伯父が復員したのは昭和22年になってからで、帰国後は、高松市役所で、丸焼けでなんにもなくなった高松市の復興に道路建設を通して携わった。

 私の父は、招集されたが、戦地へ赴く前に終戦となった。長崎で原爆の直後に被爆地区内に片付けに入り、多分被爆の影響の膵臓がんで、63才で亡くなった。父は、空襲で、前の家族を失い、そのことを復員後に知って傷心のところを、親戚が相談、戦争中で、若い男性が戦争に駆り立てられて、相手がおらず、嫁に行けなかった母と、11才の年の差婚を勧められ、承諾した。そういう姻戚間の組み立て直し的な結婚があちこちにあった。兄嫁を戦死した兄に代わって、弟が娶るという話はうちの親戚にもあった。そんなこんなも、この時代が極限状況にあったことの現れであろう。そこから始まったわが家であるから、普通に団欒のある楽しい家庭ではあったが、愛に溢れていたわけではなかった。

 私の戦争ありき、空襲の犠牲ありきの生い立ちは、私の深層心理をとても複雑にしてきた。こころからなにかを喜ぶようになるのは、子供を持ってからである。前にもどこかで書いたが、秘密めく家族の歴史を、親類の年長者の言葉の奥をとらえては、謎解きをしてきた。誰も言わず、教えてくれようともしない。だが、壁に掲げてあった古い家族写真の同じ名前の顔立ちもそっくりな姉の存在も知らぬ間にわかってきていた。

 極限状況をを刻む俳句、俳句という型を身に付け、持っていればこそ私達、俳句を作る者が、その状況下においても、書く気、刻む気になれたというもの、そして、この短さ故にしっかり記憶され、後後へと記録されていったのである。私達が、この本を読むことで、擬似的に、極限状況を感情を辿りつつ、体験する。また、もしこういった極限状況に置かれたときには、私達も、壁に地に、そして頭に胸に、しっかりと俳句を刻みつけることだろう。

 それは、新聞や論文に残る史実としての歴史とは違う極めて瞬間的な、かつ個人的な記録としての俳句である。しかし、読めば、この一行詩,17音の訴えてくるものは強烈で、まさに切りつけてくる刃物のように、胸に突き刺さる。「極限状況を刻む。」というのは、これを言うのかと、強く迫られる。

 

シベリアの父を語らぬ防寒帽  大関博美

 

ソ連抑留時の俳句)

 

秋夜覚むや吾が句脳裡に刻み込む  石丸信義

 

ソ連抑留時の俳句)

 

逝く虜友(とも)を羨ましと垂水齧りをり  百瀬石涛子 

 

満州よりソ連兵に追われつつの帰国の時)

 

酷寒や男装しても子を負ふて  井筒紀久枝