家の50年、庭の50年
2021/06/04
十河 智
梅雨の朝、窓のカーテンを開けるのは、どきどきもする。雨が降っているか、これから降りそうか、それとも今日は梅雨の晴れ間か。空は梅雨曇で、じっとりした部屋の空気やカーテン越しの光の量では、わかりにくい。昨日は、朝は降っていなかったが、その後降り出して、今朝はだいぶ強い雨である。
結婚の時に両方の親が建ててくれた、と言っても主人の親が就職のときに買った土地に、主人がローンを組んで建てた家であるが、まあ若い二人の意見は通らない。
設計や内装、市の指定業者が施工すべき工事も、伝手から紹介してもらい、義父が仕切っていた。基礎工事は、大阪で、そういう仕事をしている、「大企業の本社の基礎もやった。」が自慢の、私の従兄弟に、父が頼んだ。大工と左官は、材木屋をしている義父が、田舎の付き合いのある人を連れて来て、掘っ建て小屋に寝泊まりさせて、家を建てた。大工が、設計図に従って、組み立てるまでに準備ができた材木を運んできて、ここで組み立てた。半年くらい行き来していたと思う。
主人に言わせれば、余りもの(義父は息子のために置いていたという。)を、跡取りの義弟にせっせとトラックで運ばせた。
私は、鳴門で仕事をしていて、土曜日もまだ休みではなかった。結婚前の逢瀬は大体が今の自宅での日曜日のお昼の食事の支度、キャンプみたいで楽しくはあったが。フェリーと電車を乗り継いでの日帰りであった。
そんなややこしい家も、建築確認まで無事に終わり、結婚後、住んでみると、洗濯物干し場がなかった。竹竿売が来たので竿を2本買い、ベランダにの柱に荷作紐で縛りつけて、5年くらい使った。パートに出始めた頃、雨が降っても困らないようにサンルームを増築、そこが物干し場ということにした。
庭の木は、メインの松は、鬼無という植木の産地で松を3本買って、植木屋に移植させた。やはり両方の家の父親が、自分の知り合いから分けてもらった、果樹や雑木の苗を植えに来た。住宅地の端で、造成地なので矩があり庭は広い。柿、八朔、ゆず、ユスラウメ、梅、南天、山吹、沈丁花、樫、槇、カイヅカイブキ、椿、山茶花。
私達も枚方によく立っていた植木市でたまに苗を買ってきて植えた。すもも、白木蓮、木瓜。
クチナシと皐月は造成の石垣を飾っていた。
実が生り始めると、鳥が来、虫も寄ってきた。それらが持ってくる木もあった。蘇鉄、櫟。欅、榎も生えてくるが、大木になると往生するので見つけたら抜いている。
そして草花は、私が隙間に植えた。花屋で買ったり、貰ったり、生花のあと挿し木、挿し芽をしたり。柳、紫陽花各種、杜鵑、蕗、スギナ(つくし)、野茨、カンナ、どくだみ、ムラサキツユクサ、庭石菖、茗荷、じゃがいも。ただこれらは植木屋に雑草としてあえなく引き抜かれることもよくあった。頼んだ出入りの植木屋は松でいくらというほど松が大事。下草は見えない人だった。
子供と遊びに行ったあやめ花菖蒲園で、花菖蒲を予約、3ヶ月後に取りに行くというのをやっていて、花菖蒲を買った。漬物樽に泥地を作り、そこで育てた。
長い間には、大病もした。主人は土、草、虫が嫌い。私が草抜きができなくなると、親切を装って、前栽と矩、あと少しの土の部分を残し、私の入院中に芝生と石のタイルで平地の半々を敷き詰め、小さな池も作っていた。「病後に楽なように。」と自慢げに言っていた。草抜きは確かに楽だし、視界に入らないので矩は生え放題にしておいて問題ない。しかしこの温暖化の時代、石のタイルの夏の照り返しは尋常でないくらいである。
その池には、漬物樽ごと花菖蒲を入れ、病後しばらく通院していた時、バス停近くの花屋で見つけた睡蓮の苗を沈めた。その頃まだ多かった田んぼの水路で毎年芹を取っていたが、その根も花菖蒲の脇に植えておいた。
もうそこからでも、40年くらいになる。道路が整備されたり、市街地に区分が変わり、住宅地になってしまった。芹は何処にも生えなくなり、池で代を継いでいる。花菖蒲も睡蓮も毎年花が咲く。住み始めたときに植えた実の成る木は、柿と梅以外は全て木の一生を終えていった。李は桜と同様で大きく枝を広げていたが、一昨年崩れるように倒れた。その後がポッカリと寂しかった。そこにこの頃流行りのフェイジョアを植えてもらった。もう大きくなった木だったので、今年初めて花が咲いた。すももとは違うので、まだ慣れない。ミカン類で残っているのは金柑のみ。もう収穫できないので、鳥の食べ放題。今頃が甘くなるのかよくヒヨドリが来る。
梅雨菌すもも大樹の崩れけり
フェイジョアの花開く朝喫驚す
片隅に残し置きたる母子草
朝の陽に光り返してスベリヒユ
どくだみの花群生の幾何模様
ムラサキツユクサ既に花閉づ午前九時
毎年の呟きこれは花菖蒲
山田池花菖蒲園娘は三歳
大病の快癒記念や睡蓮は
病院帰途花屋の甕に咲く睡蓮
夏の鵯金柑残り少なきに