修学旅行、瀬戸内海を越えては行けない。

修学旅行、瀬戸内海を越えては行けない。

       2020/11/22

       十河 智

 

 19日午後、坂出沖で起きた海難事故、犠牲者は出なくて幸いだったが、香川で育ち、教育を受けた、私達の年代のものは、少なからず驚いた。私達の時代の大事件の教訓が生かされず語り継がれていないのかと。
 
 それにつけても、こういうことがあると思い出す、修学旅行と水泳の授業の思い出。

 1955年5月11日午前6時56分、高松市女木島沖で宇高連絡船同士の衝突事故が起き、修学旅行中の小学生100名を含む168名の犠牲者が出た。泳げなかった女子に多くの犠牲があった。
 この事故の後、小学校の教育で大きく変わったことがあった。私は、1946年生まれ、事故後に小学校高学年だったので、そんな教育を受けて育った。
 第一に、現場である瀬戸内海沿岸および犠牲者のあった中国・四国地方の小学校では、瀬戸内海でを往来するコースでの修学旅行はしなくなった。
 今のように家族で旅行などほとんどない時代である。海を渡る修学旅行への期待が大きく、それがないと聞いて、凹んだ記憶がある。もちろん土佐の桂浜で見た初めての太平洋も未だに絵が見えるほどの思い出になってはいるのだが。
 もう一つ、もともとあった海での水泳授業が、必ず泳げるようにを目標に強化された。泳げない女の子の犠牲者が大きかったためである。泳げる子たちにも遭難を想定した、立泳ぎや遠泳、着衣での泳ぎなどが教えられていたように思う。私は海では怖くてとうとう泳げるようにならなかった。絶対塩水には浮くからと言われても沈む子だった。先生から救命胴衣に頼って、ジタバタしてはいけない。救助をじっと待つようにと教えられた。
 その内に学校にプールが作られるようになった。今はどの学校にも設置されているが、私は高校で初めてプールで授業を受けた。どんな泳法でもいいから25m、これが最低目標だった。水が辛くないのが、私には安心感があり、やっとクロールで25m達成できた。運動音痴は水の中でも同じ、他の泳法では進まないのだ。先生は丁寧に何とかさせたいと一生懸命に、海でもプールでも指導してくれた。でも、クラスで一番走りの遅かった子、一人だけ逆上がりのできなかった子が、やっと泳げた、これは奇跡に近いと今も思っている。名前も思い出せない高校の若い体育教師に感謝している。
 
 自身の思い出も混じえたが、霧も多く、暗礁もそこかしこの瀬戸内海で、船でする修学旅行は、長い間禁忌だった筈なのだ。
 今、私も、学校に関わる仕事をしていて、先生方の修学旅行は少し形を変えて、このコロナ禍にもしてやりたいと、努力されている事をよく知っている。体験型の近いところに変更して行っているように聞いた。日頃お伺いする保健や養護の先生のご苦労も相当のもので、ようやく実現される修学旅行なのである。坂出という土地柄を考えると、歴史を知る上でも、とてもいい計画に思い至ったと思われたのだろう。
 誰一人怪我なく死者もなく、本当に良かった。心からそう思っている。

春の霧消えし命のありし瀬戸
語り継ぐこと難かりき瀬戸は冬
コロナ禍に修学旅行冬となり
暗礁に残る傷あり冬の波
暖冬の海幸いし水難に