「杭」 第77号、「英彦山の憂鬱」 前田霧人を読んで

「杭」 第77号、「英彦山の憂鬱」 前田霧人を読んで
          2019/09/25

 友人の前田霧人さんが、いつも送ってくれる、結社誌「杭」。
前田霧人さんが連載する評論もあり、継続して読ませてもらえるのは、嬉しい。

この結社誌は、各自一ページ、俳句とエッセイが二段になっている。私は、俳句も味わいたいが、やはり、短い歯切れよく、展開のある文章があれば、それにも惹かれる。私の好みにあった体裁の結社誌である。季刊。

今号では、前田霧人さんが、杉田久女を取り上げ、彼女の有名な二句と俳人としての生涯を論評している。私にとって、今までにない久女の心情の解釈で、興味が湧いた。

 感想を述べておきたい。

 昔、テレビでドラマ仕立ての久女の生涯を見たことがあった。俳句に目覚め、虚子を慕い、虚子に疎まれて、「ほととぎす」を離れる。その後、狂気に陥り、亡くなっていく。そんな物語であった。私の久女像はこれが基に築かれていた。 この評論を書いた前田霧人氏によると、「久女の歪められた姿」を見せられていたことになる。
 その時代が、多分、女でありながら、久女の“女らしからぬ”、“台所俳句を越えたものを目指す”、気概を許すものではなく、全エネルギーを注ぎ込んだ作品を残しながら、虚子に破門され、精神を病んだ狂気の言動と流布され続け、失意のうちに亡くなってしまう。
娘の石昌子が、その歪んだ久女像を正そうと、何冊も書いたものがあるそうである。どの一冊か、一度は読んでおかなければと思う。

久女の二句

【谺して山ほととぎすほしいまま】

 この句は久女が40才の時に新聞社の「日本新名勝俳句」に応募し、「英彦山」を詠んだ句として、虚子選で、全国よりの応募十万三千二百七句の中から「帝国風景院賞」20句の1句に選ばれた。久女は下五を得るために、英彦山に再度登って、ほととぎすを聞いたという。
 霧人さんは、引用も交えつつ、「低俗な台所臭」を脱するところから、久女の「作家魂」が始まった、と述べている。
「谺して欲しいまま」であったのは、「山ほととぎす」のみならず、彼女自身の気持ちでもあり、ア音の反復による高調のリズムがこの句の持つエネルギーをよく伝えている、と書いている。

【足袋つぐやノラともならず教師妻】

 私はこの句を、
「人生に諦めを持った、ノラのように家を飛び出せもせず、鬱々と生きるしかない教師の妻だ。」
そう嘆いている女が描かれていると読んでいた。
 この句は、大正10年の作、台所で、「台所臭を感じさせない」俳句を作り始めたが、家庭生活、俳句生活の両立に悩み、この句を作る前、一年間、久女の自解では、客観的に『「ノラともならず」の中七に苦悩のかげこくひそめているこの句は、婦人問題や色々のテーマを持つ社会劇の縮図である。』と、解説されているとある。
 さらに前田霧人さんによると、時期からして、丸一年の俳句空白を経験後に作ったこの句は、それまでの自分の生活を客観化することにより、過去を払拭し、「ただ忍苦と諦観の道をどこまでもふみしめてゆく」決意をし、新たな気持ちで再出発しようとした、そういう前向きで、ひたむきな気持ちが籠められている、という。
 久女自身が、こう書いているという。
 「覚醒と共に家出したノラははや時代遅れとなった。」
 「私の足は今大地をしっかと踏んで立ち、嵐にも、大波にも、または現世の美しい誘惑にも享楽にも打克てる様になった。」

 何かを為したい女性として、久女の姿は明確に私の前に写し出された。悶々と悩むだけではない、行動と発言を伴う生気を感じた。受け入れつつ、挑んでゆく。普通の女性が一歩踏み出したい、そう思ったときの覚悟の仕方を、教わった気がするし、我が人生に重なる気分もあるように思う。

 偶然といってもいいこの久女論との出合い。筆者であり、この誌の送り主である友人、前田霧人さんに、もう一度感謝して、この文章を終えたい。

             十河智