「遠くの声」 藤本夕衣 を読みました。

「遠くの声」 藤本夕衣 を読みました。
          2019/05/29
 夕衣さんは「ゆう」で、田中裕明の教えを受けることになったが、、それがたった一年という短期間で断たれる。
 「ゆう」終刊号、田中裕明主宰追悼号を読み返した。夕衣さんは、句会での最初の出会いから「先生への手紙」と題した追悼文で述べていた。文章の中で、これがお別れとも追悼の言葉とも書かず、裕明さんの「素直につくってみてください。」という言葉を噛み締めながら、お尋ねしたいことの答えを、これから先は、先生の俳句を読むことから掴み取り、俳句とともに歳を重ね暮らしていくと、決意を表していた。
 「遠くの声」、このタイトルのことを考えた。遠くの声とは、裕明さんが、夕衣さんの読む俳句と、その行間・余白から伝えようとしているものなのだろうか、また、一年間の裕明さんとの句会や手紙での直接の指導の端的な助言などが、今は遠くの声として夕衣さんに聞こえてくるのだろうかとも、思うのであった。
 もちろん、その後に出会った多くの先達に対する敬意の念も、この句集にはよく現れている。

 なお、この追悼文の追伸として夕衣さんが挙げている好きな裕明さんの句、

大學も葵祭のきのふけふ 田中裕明

 同じキャンパスの中に過ごした青春時代を持つものとして、私も好きな一句である。

 「静かな場所」の読者として、時おり夕衣さんの透明感と品位ある俳句に触れることはあった。
 その後、夕衣さんには、社会人となり、結婚や出産もあり、「静かな場所」からも離れられたので、接点はほとんどなかった。
 三年前から縁あって、私が句会を移動しての再会があり、同じ句会のお仲間である。
 
 「遠くの声」を手にし、一読したあとの印象は、透き通る世界、使われるのは、清らかで癖のない言葉、ということである。
 
掌に湖の水なつやすみ
 帯に取り上げられた一句。帯文を寄せられた中嶋鬼谷さんという俳人の撰んだ一句である。中嶋さんの簡潔なる紹介の文に感動した。これ以上は要らない。引用する。

【 渚に立つ聖女の姿を思わせる一句。
作者の師田中裕明の、
 みずうみの
 みなとのなつの
 みじかけれ
に和した作であろう。
本句集の作品世界はすずやかで透明であり、いのち讃歌の一集である。
     中嶋鬼谷 】

藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、好きな句を揚げ、数段に分けて、鑑賞を入れさせてもらい、紹介したいと思う。
 句集全体の読後の感想をまず述べておきたい。

☆☆☆
 はじめての経験であり、人としてありふれた成り行きでもある出産、育児。妊娠時から産まれた赤ん坊にまだ戸惑う新米の母親、私にも覚えがある、実感伴う句ばかりである。一句一句にその時分の思いが込められていて、ご本人には、俳句に託した母子日記となっていることだろう。
 句集の読者である私にも、人生についての煩悶を重ねた時期が思い出され、感慨深く読ませてもらった。
 また、そんな忙しさのなかにも、自然と触れ合い、詩情に浸り、感じて、切り取った俳句が、鏤られていて、格調高く、心地よい句集であった。
☆☆☆


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
一〈夜空〉

泥水のバケツに澄める小春かな
 ☆「泥水のバケツ」、これは何のバケツなのか、俳句の題材らしからぬものに驚かされる。そして、「澄める小春」、このあり得そうもない取り合わせに、また驚く。いや確かに見たことある光景だなと、この二重の驚きがまたひっくり返る。日向に泥水を湛えて置かれたバケツ、水面は穏やかで、この界面までは小春日和の澄んだ空気がバケツを満たしている。その空気を感じ取っているのだ。

ペンの鞘固く閉じをり冬木の芽 
 ☆田中裕明先生三回忌と添えられた一句である。感慨深く味わった。裕明さんには、私も手紙での添削を受けていた。何度か書簡の往復もあった。いつもペン字であった。固く閉じてもう外されることはないペンの鞘。師はもう帰ってこないという思い。冬木の芽、夕衣さん自身のことかなと思う。こちらはいずれは芽吹く春を持っている。そういう希望と決意を感じた。

手の中の水飲み春を惜しみけり
 ☆山の清水か、水道の流水か、少し暑さを覚える春の終わり。水が冷たく美味しそうなのだ。しばらく手のなかで遊ばせた水を飲む。季節の変わり目の自然な行為をうまくとらえている。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
二〈みづうみの水〉

月見草どこ開きても静かなり
 ☆田中裕明全句集と添え書き、私の書棚にもある。ふと取り出しては、開いたところから、読んでいく。夜更け、月見草の花開く時間帯である。この句の中の「静か」は、尋常でない広がりを持つ。月見草の群れ咲いてもなお漆黒の闇の「静か」、田中裕明全句集の持つ重みを抱えるものの「静か」、そして、田中裕明の詩情じわり溢れでる言葉の海の「静か」。実感として伝わってきた。

掌にみづうみの水なつやすみ
 ☆帯に揚げられた一句。「みづうみ」「なつやすみ」のひらがな表記が裕明さんの句を思い出させながらも、「掌」から零れ落ちる水に動きと明るさがあり、詠み手のしぐさが生き生きと若さを感じた。夕衣さんがここにいる。

研究のための一室小鳥来る
 ☆大学の研究室であろうか。あまり広くはない細長い部屋。中庭に面した窓が明かり取りである。中庭に大木があり、小鳥が来る。緊張感のある研究生活の中のやすらぎである。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
三〈青きインク〉

狐火や写真の中の知らぬ人
 ☆俳句には、読者に、個人的な体験により、作者の背景とは全く別世界を広げさせることがある。
 私にも、写真の中に知らぬ人がいる一枚の家族写真があった。狐火の孕む妖しさ、ミステリアスな物語性。

寒林をねむたきままに歩きけり
 ☆徹夜でもしたのだろうか。寝てしまっては困る事情でもあるのだろうか。寒林はねむたきままの状況をはね除けてピシッとさせてくれるだろう。そういう気分転換もあろうかと思うのであった。

大学を貫く道も冬枯るる
 ☆大学を貫く道、同じ大学に学んだものには、それとわかる道である。私は自分の歩いたその道の冬枯れを思い浮かべる。大学紛争中の時計台の内外での攻防、時計台が止まり、部外者が乱入し本当に荒んでいた。この句は、多くのことを思い出させてくれた。裕明さんや夕衣さんのこの道はどんなだったであろうか。

あらかたの白梅ひらく夜となりぬ
 ☆夜の白梅の美しさは格別である。毎日見る梅であろうか。今宵ほぼ白梅は開ききったと実況中継のようである。その語り口が感動を呼び起こす。


囀や青きインクが指の先
 ☆私も、裕明さんが、ブルーブラックの味わいのある文字で一言くださるのに触発されて、昔の万年筆を再度使いだし、今も愛用している。そして指先によくインクをつけている。 

雨やんで月の真下の大文字
 ☆改めて言うことはないほど、ふと気づくと、東山の上に月があるし、その発見に感動する。この句、雨の後で大文字が滞りなくみられる安堵もあり、涼しく澄んだ空気、それを統べている月である。清々しく言い切っている。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
四〈おほかたの星〉

桐箱をひとつづつ開け法師蝉
 ☆法師蝉の鳴いているある日、子供の成長の記録でもあろうか。ひとつづつ開ける行為を見守る眼。子供がよくやる光景であり、そのゆったりのんびりの時間が、法師蝉で言い尽くされる。

歩みきし子の見上げたる夜の星
 ☆夜に出掛けることはまだ珍しい頃の子供だろう。夜空を見上げたかったのは、親の方かもしれない。よちよちとやって来て、親の前にきて見上げると、星が瞬く。感動というものの始まり。親から子へ伝わっていくものがある。

島の人ただ坐りをる聖夜かな
 ☆私は私の島を思い浮かべているのだが、この通りの光景があるのだ。私の島は瀬戸内海。だから、聖夜とは、関わりなく、この島に生きて溶け込んでいる人の姿である。この句、五島三句と添えられている中の一句である。隠れキリシタンの島であれば、聖夜に隠る意味は、もっと大きいものかもしれない。

おほかたの星に名のなく凍りけり
 ☆この句にあるのは、どのような心情なのだろうか。単に人の世と星の世界を重ね合わせた平凡な人生に対する感慨なのかも知れない。しかし俳句はおのずと自分をさらけ出すことがある。「おほかたの」の中に作者が含まれ、「おほかたの」以外の生き方を思っているようにも思われた。なにも知らないので、言い切ることはできない。が、私には、幸せな結婚と思いつつ、その後の思うようにならない志に、もう自分は終わったとまさに凍る思いに陥った時期があった。そんな気持ちを懐かしく思い出させる一句である。

青き踏み独立の風今もなほ
 ☆「独立の風」という颯爽とした言葉、具体的には何を示すのだろう。若い作者の志なのだろうか。「青き踏み」に決心と実行が志に沿っていこうとしている。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
五〈昼の露〉

何事もなき日のごとく囀れり
 ☆何かがあった日なのであろう。嬉しいことか悲しいことかもわからない。人の事情に関係なく、鳥は囀っている。自然はおおらかである。囀りを楽しめばいい。

いつになく比叡の遠き燕かな
 ☆比叡には何があるのだろうか。この句には、燕ならば軽く飛んでいけるはずという前提がある。それが「いつになく遠い」のである。ただいつもより霞んで遠いと感じたというのかもしれないが、比叡に飛んでいきたくて、いつもみたいに軽々と飛んでいけない心情があるような気がしている。

しつかりと心音のある晩夏かな
 ☆妊婦検診の時に聞く心音であろう。自分の中のもう一つの命を確認し、とても感動する。

宵山や真赤な月のひんがしに
 ☆季節、折りごとのひんがしの月、京都の道は、きっちりと東西を通っている。宵山の賑わいと四条通りの長さ、いま出たところの赤い月。

(夕衣さんにお子さんが生まれ、こどもへの眼差しが句に現れる。)

生まれくるものの重さや昼の露 
 ☆妊婦が確かな実態として感じる子供の存在である。健診の度に告げてくれる。

育つこと悲しくもあり初氷
 ☆赤ん坊がだんだん人らしく表情を見せる。意志を持つように振るまいだす。氷に触れ冷たさを知る、凍るほどの寒さを体験する。育つこと悲しくもあり、その通りである。そして詠者の心情の吐露であるかも知れない、育てている自分の少し悲しみの入る思いでもあろうか。

終りなきごとき一日枇杷の花
 ☆子育てとはこういうものである。今しなければならないことを粛々とやりながら、終わるのだろうか、この暮らしは、と思ってしまう。地味で目立たず、注目もされない。枇杷の花がうまく取り合わせられ、切ない。

髪の毛も眉もまつ毛も冬日
 ☆いとおしいわが子をつくづくとながめている。全部私の子という感覚で。冬日向が赤ん坊と自分を包む。満足、幸福、そして責任。

雪片を赤子とひとつふたつと見
 ☆これが雪というものだよ、初めて認識させる時がある。あまり激しくない、ふわりと手に乗って来る雪。わざわざ外へ出たのかも知れない。子供を育てたものには必ず思いでの中にある一シーンであろう。

少しづつひとりのときや冬ごもり
 ☆この句にも母親と子、両側からの観点を感じ取れる。出産後、一段落して、子供が一人遊びを覚える時期、自分もひとりのときとなるのだ。これからのことを思う時でもある。「冬ごもり」には、「春になったら」が隠れている。

泣きやみし子の悴んでゐたりけり
 ☆子供は待つことにしていた。無理を言って泣きじゃくるときは、泣き止むのを待っていた。泣きやんだとき、側に寄せて抱いてやる。小さい体の隅から隅まで、撫でるように確かめる。親にも覚悟のいる待つ時間であった。

寒椿まばらに咲いて日のあまる
 ☆お日さまは椿の花を光らせてこそありがたく暖かく感じられる、という感覚。咲き足りない。「まばら」が言い得ていて、降り注いできて、受け手が不十分で、もて余した感じのお日さまを「日のあまる」とは上手である。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
六〈白き花〉

花を見て最終講義はじまりぬ
 ☆夕衣さんのある日の時間の経過を辿っただけの記述かもしれないのだが、感性と情況がすっきりと、いとも簡単に曝け出されていて、好ましく感じられた。最終講義には特別な感慨もあるものと思われる。

つくづくと山の国なり雲の峰
 ☆なぜこう思ったのだろうか?「つくづくと」「山の国なり」この措辞はどうして出るのだろうか?作者は山にまた重なる雲の峰を見ている。今いるところも山ばかり、改めて多分京都を囲む連山など思い出しているのだろうか?

楓の葉に日のすきとほる白露かな
 ☆白露、まだ少し日が長い、ほんの少し暑さの残る、そんな時期に、まっすぐに、楓の葉を貫いて来るように感じた日差しを「日のすきとほる」と表す。意外であり、日差しの強さを感じとることができた。  
 
遠くより京の暑さを思ひけり
 ☆この句、私にはわかる、そう思って取り上げたのだが、夕衣さんは、何処で京の暑さを思っているのだろうか、とふとわからなくなる。
 京都は暑い。詠者がそれを知っていることが根底にある。そして今は京都にいない。ただ「思いけり」に込められるものが、万感ありすぎて、肯定的なのか否定的なのかすら、読み手は迷ってしまう。自然と自分に当て嵌めて読んでしまうものだろう。「遠くより」にも同様の読み手の迷いが起きる。ある人は京都にいる人を遠くから思いやりと取り、またある人は、自分の現在を、過去の暮らしの象徴としての京の暑さと引き比べたものと読む。
 この句の感傷を自分に重ねる人のなんと幅広いことだろう。

白き花あつめてゐたり露の玉(悼 祖父)
 ☆葬儀の後、忌日までの一定期間は白いお花を飾れと聞いている。おじいさまを亡くした直後の悲しみが露の玉となって極限まで膨張し、落ちてゆくのだ。

 
藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
七〈落つる光〉

白息や泣く子を置いてきしままに
 ☆俳句に事情は書かない。しかし母親であることと、止むに止まれぬ思いがあることが察せられる。体温から発せられる白息が離れがたい情をよく表している。

凍る夜に生まれくるものありにけり
 ☆生命の誕生についての神秘を、事実を述べるだけで、全て言い得ているように思った。
 生まれることは成り行きであり、運命的であること。それを踏まえての、こんなに凍る夜に生まれくるものへの愛しさが込み上げてくるのである。

薄氷をつたひて落つる光あり
 ☆美しい。美しいと感じたものを書き留めた。読んで、その状況を寸分も違いなく、受け止めて映像化した。これが詩であり、俳句だ。

ふるさとと子に言ひきかせ梅の花
 ☆ふるさと、ここで言うのはどこだろう。親にとってのふるさとが、子にもい一致しているのだろうか。「言ひ聞かせ」ているところが、親が離れた土地であることを思わせて、微妙である。近頃は親、子、孫、違う故郷を持つことの方が普通である。

囀や「泣いたつてママこないのよ」
 ☆孫を預かることがある。母親が拠ん所ない用事があるとき、核家族では、急遽祖父母が呼ばれたり、私の子育ての時は、ご近所に預かってもらった。そんなときの状況を、預かった側の視点で、よく言い表しているような気がする。これは、また裏を返せば、子育て上、一歩踏み出す母親の覚悟の呪文であるかもしれない。母と子の分離、ここを経験し通過しなければ、それぞれ次に進めないのである。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
八〈文机〉

花冷えや誰もさはらぬ本の函
 ☆女の人の環境が結婚や出産で変わると、本も箱を開けないままになることがありうる。子供を追いかけながら、横目に、「私以外の家族には用のない本」、そして「私には、人生でさえあった大切な本」と、ちらっと見てはまたそのままにする。手が回らない悔しさが、「花冷え」、「誰も触らぬ」という季語と措辞に込められている。

白百合やどの子にも日のあたりをり
 ☆ほっとする一句である。両親は子供には未来が明るいことを信じて育てている。そんな子供たちのいる、白百合の花壇のある公園やマンションの広場を知っている。

泣き果てし子を夕焼にたのみけり
 ☆こどもが泣き果てるまで待つ、忍耐のいる子育てを実践しているのだろう。泣いて疲れて見上げたときの夕焼けの赤、その中にいる自分に気付かせてあげるのだ。雄大な自然、詩情との出会いかもしれない。

少しづつ月の欠けゆく文机
 ☆前の章の最後にも「戻りきし文机にある春日かな」とある。夕衣さんにとって、自分の場所なのであろう。少し自分も環境になれて、一定時間文机に迎える余裕ができた。毎日の月の欠け具合が見えても来た。

赤ん坊につままれてゐる大海鼠
 ☆俳句で切り取られる場面に、ギョッとすることがある。この句もそう。でもフィクションではなさそう。魚屋の店先で、水族館かも知れない、触らせていい場所で、体験させる。海鼠にとってはひどく迷惑な話、そんな感じを匂わせる表現である。


藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
九〈雨のにほひ〉

子を連れて短き旅や水草生ふ
 ☆やむを得ず、子供を連れて旅をすることがある。でなくて、時期が来て、子育ての気分を変えるために出た旅なのかも知れない。ペースを子供に合わせていると、眼にはいるものもある。「水草生ふ」そんなものの一つであろうか。

草笛の鳴らずに雨のにほひする
 ☆雲行きの怪しい雨の降りそうな日、雨のにほひは、そこいらじゅうに充満しているのだろう。草笛が鳴って、一掃したかったのに、鳴らなかった。

十五夜を待つて赤子の生まれけり
 ☆自然の現象はつきの満ち欠けに大いに関係するという。まるで赤子の意図のように「十五夜を待つて」と書く、産むものの所有ではない、対等な存在感を感じている作者がいるように思う。

椰子の葉にあたりて風の光りけり
 ☆南国の日当たる海岸などを思い描いている。風を感じさせるものは、椰子の葉の揺れしかなく、揺れがときに日を反射して光る。「風の光りけり」新鮮な感覚である。

藤本夕衣さんの句集「遠くの声」より、
十〈黒揚羽〉

新緑の奥のみどりの濃かりけり
 ☆新緑を感じさせるのは、やはり明るさがあってのこと。例えば、森や木立の奥行きをこんな風に言葉で言い表せるのだ。

台所のぞきにくる子秋の暮
 ☆お母さんを探す子、わかっているが知らん顔するお母さん。必死であり、遊びでもある。子育てになれてきた頃の余裕であろう。

凍る夜の月の方へと帰りけり(悼 大峯あきら先生)
 ☆「凍る夜」、大きな存在を失った痛手を感じる言葉である。そして、なお求める気持ちを受け止めてくれるものとしての、「月」。心情に委せて詠む、それが俳句を美しいものに仕上げていくのかもしれない。

泣きやんで真顔になる子水中花
 ☆泣いている子の前で、見たことのない現象が起きる。水中に花が開いていくのだ。きれい、不思議。その子の感性がピクッときたのだ。「泣き止んで真顔」にさせる技でもあるのだ。

炎天をはらりとのぼる黒揚羽
 ☆黒揚羽は何の象徴なのだろうか?太陽の黒点が元に戻っていくように、「はらりとのぼる」の措辞が感じさせた。炎天でありながら、動きがあり、暑苦しくはない。

             十河智

2020/01/26 追記

欠席投句ながら句会でご一緒している、藤本夕衣さんの、この句集が俳人協会第43回新人賞に選ばれました。とても嬉しかったです。藤本夕衣さん、おめでとうございます。
             十河智